ディスコミュニケーションに関する考察/はるな
 
てそれがコミュニケーションだとされるべきであるというところも、理解できます。それはアートのみならず、日常的に行われていることです。つまり、意思の疎通(コミュニケーション)のかたちを表すものがここにあるとすれば、それは意思の疎通ができなかった(ディスコミュニケーション)のかたちを表したものでもありうるということです。コミュニケーションアートは、ディスコミュニケーションを飲み込んだかたちでの、アートということにもなり得ます。
ではディスコミュニケーションの魚拓をとることはできるのだろうか?
それはたまたま発見されるものでなければならない。自分から働きかけるものを、コミュニケーションと呼ぶので、それ
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