今夜の月は綺麗だね/豊島ケイトウ
 
であいさつできるようになった。きっかけがあれば変われるものなのだ。
 そして今日の夜、彼女はいつにもまして疲れはてた様子で帰ってきた。アップルパイを食べるとすぐベッドに倒れ込んだ。声をかけても返事がない。心配になってそばに寄ると、彼女は僕の腕を引き寄せて、僕の鎖骨のあたりに顔を沈めた。覚醒した日はいつも決まって興奮がつづくのに、どういうわけかこの日は憂鬱そうだった。
 しばらくして僕はベランダに出ようと提案した。彼女はゆるゆると起き上がった。
 夜空には弓張り月が鋭い光をまとっていた。少し赤味がかった、怪しげな光だ。それを見て、彼女は「今夜の月は綺麗だね」とつぶやいた。僕はうなずいた。
 その翌日、彼女は轢死した。覚醒していないときは至って普通の女の子だった。僕は何日にもわたってアップルパイを作りつづけ、そして食べつづけた。
 やがて彼女に破壊された街がどんどん復旧していった。僕もいつか忘れてしまうのだろうか、などと思いながらも、僕はやっぱりアップルパイを食べつづけるしかなかった。

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