花冷え/豊島ケイトウ
涙をぽろぽろ流していた。夫は口のはじをゆがめ、これまで見たこともないほどのはかばかしい表情で、笑い声をたてた。
わたしは泣きつづけ、夫はかんらかんらと笑いつづける。一本の映画を見終わるくらいたったころ、夫はようよう家を出ていった。わたしはすでに泣きやんでいたが、それはからだのなかが空洞になっているからだった。腕や肩がぶるぶるとふるえていた。
寒い、と思い、窓の外を見た。おとなりの垣根から桜の木がのぞいている。蕾がひらきかけている。ああ、もう春なのね、と、わたしはひとりごちた。そして、こんな花冷えの日に、夫はいったいどこへ行くのだろう? と、首をかしげた。
落ち着きを取り戻してから、立ち上がった。けれど、するべきことがわからず、また途方に暮れた。あたりにはなにもなかった。捨てきれなかった、無音の空間のみ取り残されていた。
枯れ木のようにたたずむわたしは、しかたなく、ほほえんだ。
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