「縄文の犬」について/ぎょうてんかん
 
穏やかな気分のままに書かれた。細かく言えばつっこみがたりない。一方で、AtoZさんの指摘のように、「粗末な船」にこだわれば、たしかにそうだ。他方、古代人の気持ちを今振り返ることはほとんどできない。せいぜい現代人の気持ちで古代のばらばらな知識を集めて、こんなものだろうと想像するしかないのも事実だ。したがってこの詩は古代についての現代詩だ。さてよく歴史のロマンといわれる。しかしそうなのか。現代において、古代を夢見るとは何か。現代の知識と現代の感性で古代を再構成して、はたして面白いのだろうか。現代に必要なのは現代でなければ感じられない感覚と感性でないのか。縄文の人は縄文の人にすぎない。うっすらとした痕跡に基づいで古代人の感性を想像するのは、至難の業で、ほとんど不可能と思う。
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