感情による共感、によらない一体感についての個人的な考察/テシノ
いのだが、殊更にそれらの作品に対してはコメントする事が難しく、ただただポイントを入れるのみとなる。
これはタルコフスキー作品の感想を語れないのと同様、それらの作品から得た一体感を私の言葉に倒置する事によって、作品自体のもつ
「映像である事」
「詩である事」
の純粋性を損ない、作品の本質から乖離する事にしか繋がらないような気がするからだ。
忘我によってもたらされるエクスタシーの前には、私ごときの言葉など徒物でしかないのかも知れない。
う〜ん、やたらと長いだけで全然上手く纏められていないが、個人的にはだいぶすっきりしてしまった。
「おいそこの馬鹿!」と呼ばれても、今なら喜んで振り向かせていただく所存。「変態!」でも可である。
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