シコシコ/攝津正
考えかも知れぬ。自分が行為者の側にいるとどうして言えよう。(哲学、文学、音楽も「行為」である。)精力的に録音に励む前田さんのほうが「行為者」、攝津のほうが「認識者」かも知れぬではないか。だが、『豊穣の海』の図式を無理に自分に当て嵌めなくても、とも思った。
攝津はその週、まともに働く事が一日も出来ていないまま金曜日を終えようとしていた。一時は死ぬしかないと思い詰めていたが、猫の目のように気分がころころ変り、今は相対的に落ち着いており、死ぬ必要は無いと思えた。明日は出勤出来そうな気もしていた。
音楽家になるのを断念し成熟すれば病気が治る、そう単純な物ではないらしいのは分かった。プロになる、
[次のページ]
戻る 編 削 Point(0)