桃色ラビッシュそして清潔な朝日/ソノタ
たとたんに、悲しんだとたんに、ジジが死んでしまうと思っているかのような、切羽つまった陽気さだった。あんなに奇妙な陽気さを、わたしは知らない。
そうして、彼のしなやかだった肢体が完全にかたくなり動かなくなっているのをみる朝までの数日を、過ごした。たぶん3日間くらいだったと思うのだが、おぼえていない。苛立たしいほど長くも感じたし、切ないほど短くも感じた。その朝大きな窓からは、ばかばかしいほど清潔な朝日が見えた。
ジジを亡くすと同時に、わたしも小さな死を迎えた。それ以来、わたしにたびたびおとずれることになる小さな死。わたしが、”小さな死”と形容しているそれは、喪い失うことに付随するいかなる感情や理屈などをも超えたことろにあり、肉体の死は含まない。わたしであって、わたしでない。それが一体何なのかは、今のわたしは言葉にすることができない。それが、死というもので、生きるということなのかと考えたりもするが、いつもただわかることは、今日は今日の清潔な朝日が、わたしを照らしているということ。それだけだ。
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