現代詩をそんな読み方してないゆえに/KETIPA
 
でもないのか、それくらいは意識できしないと、それを心がけることすら出来ない。だから満足がいく詩にならない。この言語化できない感動を言語化する必要があるのか。


表現したい情景や心情などない。表現を通して情景や心情、そのほかの説明可能な何かを浮かび上がらせること、それ自体が目的ではない。かといって表現の新奇性を追い求めるつもりもない(それはすでに行き詰まった)。それらはおれが現代詩に感じる感動の要素ではない。それは単なる解説であり解釈であり、クラシック音楽における「この作曲家はこれこれこういうことを表現しようとして」という類のものと大差はない。そんなこと知らなくても読み取れなくても、それでも心を奮わせるものしか、今のところ受けつけていないし受けつけない。そしてもしかすると、こういう読み方をしている人は多くないのかもしれないと感じている。実際のところはわからない。



もうちょっとで完全に迷う。意味がわからない。理由などどうでもいい。感動できればいい。でもせめて感動している理由がわからないと、感動できるものがつくれない。先人はとっくにそんな議論を済ませているのだろうか。
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