帰路/夏嶋 真子
たことか。
どれだけ、おまけしてもらったことか。
その先の鰻屋から出てきた老婆と息子が、なにやらもめている。
「かあさん、いいよ。オレが払うって。」
「いやいや、あんたは今度、家族に食べさせてやんなさい。」
「いいよ、かあさん…。」
なぜだろう、そんな光景が鼻の奥にしみて泣きたくなる。
この町に移り住んでから、建物に切り取られた狭い空に
呼吸が苦しくなることがなくなった。
びっしりと密集した建物と電線の隅間に浮かぶ、
乱雑な空の形には、人が住んでいるから好きだ。
この空も、この道も、この町も本当に好きだった。
どこにでもある当たり前の帰路の途中で
どれだけの想いをあたため、
どれだけの苛立ちを空に放ち
どれだけの悲しみに震えたことだろう。
けれど、これが最後の帰り道。
もう二度と歩むことのできない帰り道。
明日、わたしはこの町を出て行く。
町の隅々までを記憶の箱庭にかえ、
ちっぽけでいとおしいこのてのひらにのせて。
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