風呂場のサイクル/電子ノ猫人
 
憤慨しストライキを起こしてしまった。こうなっては「風呂に入りたいものが洗う事」という原則が出来てしまい、私は風呂に入りたいが為に風呂を洗う羽目となった。

かくしてサイクルは一時的にではあるが崩壊してしまった。が、ほとぼりが醒めたのちまたいつも通りのサイクルが確立することとなる。こうしたことは珍しいことではなく頻繁に起こっている。このような他愛のない当番もそうだし、体を構成する骨や細胞も破壊と再生を繰り返し日々成長している。

破壊の中に成長があり、さらにその中にも一定のサイクルがあり命は巡っている。風呂と言う休息の場はそのような馬鹿げた哲学を考えるに相応しい場なのかもしれない。
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