短歌と文法、詩と文法/非在の虹
 
いことを示しているではないか。
僕は短歌というツールを使いたいのだ、千年も使っているのだ、現在使えない部分があっても、おかしくもないことだ。
僕が憂うのは、詩人という個人が獲得し、万人が承諾すべき文法というものを、万人の論理で個人を縛る道具にしてはいないかということだ。
このことを詩の自由の論理の放棄というのだ。
そこからはポエジーは生まれない。干からびたアナクロニズムがあるばかりであり、廃墟を見る目が孤独に開いているばかりだ。心ある詩人なら、いや詩人たらんとするならば、けっしてこのぺダンチスムには陥ってはいけないのだ。
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