教育について/パンの愛人
 
、まず自分が変わらなくてはならない」というもので、ここで言われる「変わる」というのが、いったいどのような性質であるのかが、まずもって問われることになる。
 それは、自分の反ファシズムを相手のファシズムに迎合させることだろうか? それとも一種の弁証法的な発展を意味しているのだろうか? もしくはただ単に応対の物腰を変えるといったような表層的な変化をさしているにすぎないのだろうか? いや、実際、そのどれであろうとかまわない。国家形態としてのファシズムは、ニ十世紀でいちおうの敗北を喫したが、それはけっして渡邊氏のような人たちの尽力によるのではないということを、私は確認しておきたいのである。

 そのほかにも、第三、第四、第五と名目はいくらでもあるだろう。じっさい、こういったことはいくらでも自分の都合に合わせて捏造できるような気がしないでもない。



 以上、私の投稿のなかのどこかに、ひどい論理の過誤が含まれているとしたら、それはおそらく、私が「教育」と縁遠いまま成長してきてしまったためだろう。
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