純粋正義への架橋18/チャオ
換させることを。
それらの膨大な時間が、ひとつ体験の概念を唯一のものとしていった。丹念に、赤をつむぎだしていったのだ。
そうやって、僕らは赤という言葉を知り、赤という概念で、赤という言葉を使う。
だが、歴史は終わらない。さらに、もっと正確に赤を表すために、人々は社会化された赤を深く見つめようとしていく
赤の個人的物語を描き出すことによって、赤の持ちうる(内在する)可能性をも表象させようとする。
「彼にとって、赤はピンクであるかもしれない。」これもひとつの赤の物語だ
「また彼にとって赤は、悲しみを抱かせるものだ」これもひとつの赤の概念だ。
「さらに彼にとって赤は、アンパンマンのほっぺのことだ」それも赤の事実だ。
それら、個人的な物語へと派生させることによって赤をより正確に描写していこうとする。それはなぜか?
なぜならば、赤は、可能性でしかないからだ。赤の概念という物体から、現実世界という第三者の影響を受け、第二者たる彼がそれらを赤と構築させる。
そうやって、再び、歴史を必要とする。さらに深い赤を求めて。
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