モリマサ公の日曜は父親と遊園地に行こうを読んで/イダヅカマコト
心配が自分以外から入ること」・「911(や被爆者)の映像の記憶」が組み合わさり、モチーフの中で自分から一番遠いものはずのものが水たまりの中から浮かび上がってきます。
ここで作者が抱え込んでしまっている現実とインスピレーションの混沌の中で、初めて語り手は「わたしたちはどこにだっている」と言葉にします。
本当に自分自身の体でようやく抱えられるような等身大の言葉という言葉があるとしたら、ほんとはこんな、すがりつかなければならないような言葉のこぼれ方にあるのではないでしょうか?
この「わたしたちはどこにだっている」というこぼれ方は、田中小実昌の『ポロポロ 』でこぼれおちる意味にならない言葉
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