詩人のシノギ(大和田建樹の巻)/みつべえ
を学ぶ。1879(明治12)年に上京。翌年、日本最初の実業家社交クラブ「交詢社」につとめる。1881(明治14)年に東京大学の書記。 1884(明治17)年に東京大学古典講習課講師。 1886(明治19)年に東京高等師範学校教授となる。この年、「新体詩学必携」をかいている。彼もまた「新体詩抄」の薫陶をうけたのである。そして生涯につくった歌詞の数は1300にのぼる。こう言ってよければ、作詞に特化した新体詩人であった。1891(明治24)年に教職を辞し、文筆家となる。1900(明治33)年に「鉄道唱歌」発表。1910(明治43)年に東京新宿で54歳で没。早すぎる死であった。
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彼は、交詢社の書記のあと「学校の先生」になったが、唱歌や軍歌の作詞や雑文などで食べていけるようになると、35歳で文筆業に転じた。 著述は100巻を越えるという。異論もあろうが歌詞を広義の詩とすると、彼は詩を売って生計を立てたことになる。
このシリーズ初の職業詩人として顕彰したいと思う。
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