創書日和「靴」 物語の始まり/北野つづみ
 
たとえばマリアナ海溝のヴィチアス海淵に
古びた靴が片方だけ沈んでいたとして
その古靴が本物の牛革で
しかも、腕のいい職人の手によるものなら
そこから物語は始まるかもしれない

用水路の土手に転がっている小汚い
かかとのつぶれた運動靴じゃ、話にならない
それが
人工皮革の合成ゴムの大量生産品ときては
なおさらね
青草の上にごろんと横たわっているそいつは
犯人を挙げるのだって難しい
ただのゴミにしかすぎないんだ

そんなことを思いながら、小さくなった子どもの靴を
青いビニール袋のなかへぐいぐいと押し込む
(子どもは始終、脱皮する)
埋め立て処分場に運ばれれば
古着や、壊れた家具や
まだ使えそうな家電製品なんかとごっちゃになって
ずぶずぶと沈んでく

そこには
同じ色で違うサイズの靴や
違う色で同じサイズの靴がどっさり埋まって
地層をなし
初めて歩いた日の空の青さ、みたいな
どこかで聞いたことのある
ありきたりなモノがたりが大量生産されている

さあ、僕らは
そこからどんな新しい物語を始めようか
いや、始められるのか


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