世界の残り香/比口
 
あなたの手首から、ふわりと香る香水が好きでした。
大人びたタバックレザーの香りは少年めいたあなたとの間に
危うい不均衡さを生み出して、不思議とあなたの存在を
空間に焼き付けました。

はい、とグラスを差し出す、乳児のような滑らかな肌の手。
そのグラスを壊れないように受け取って
少しずつ、あなたの香りを飲み干しました。


甘く、静かな主張をするあなたの香りが、あの瞬間が
私の世界のすべてでした。

「月が昇ったら、そこに向かってペダルをこぐんだ」

そう言ったあなたは、いつものように 
バランスの崩壊した世界を背負っていましたね。
私は、その崩れた世界とともに在ることを、どんなに 願ったか!


今はもう廃墟でしかない子供部屋には微かな残り香と
空になったグラスがぽつり、と佇むだけでした。
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