なぜ書くか、あるいは15分間で何が書けるか/んなこたーない
 
「書き魔」であったことを知り、
是非とも真似てみたいと思ったものだが、やはり長続きしなかった。
いまでもなお書く(実際にはタイプを打つ)ことは、ぼくに新鮮な戸惑いを与える。

ふたつには、雛鳥がはじめて見たものを親だと思うのと同じように、
最初に入れ込んだのが瀧口修造だったせいである。
詩集らしい詩集を一冊も残さず(これは出版社側の手落ちという外部上の原因もあったようだが、
彼が一般的な「詩集」という形式に特別拘泥していなかったのは明らかである)、
「詩は行為である」と書く瀧口を読めば、誰でも「なぜ書くか」という
あまり気乗りのしない問いの前に嫌がうえでも立たされてしまうことだろ
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