白糸雅樹[れびゅう:本] 2003年12月18日1時17分から2003年12月31日2時39分まで ---------------------------- ???????????????? ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]君が悪いんじゃない 「トットとトットちゃんたち」黒柳徹子/白糸雅樹[2003年12月18日1時17分] 〜〜以下引用〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 そして理由もわからず、大人たちに、まじって逃げた。 助かった小さな子どもたちは、みんな 小さな胸を痛めていた。それは、 家族が殺された理由を、 ''自分のせい''と思っていたからだった。 (僕が、お母さんに「やっちゃいけません」といわれたことをやったから、 お母さんは殺されたんだ) (私が、何か、いけないことを、やったに違いない) 本当は、フツ族とツチ族の争いなんだけど、 そんなことを、小さな子どもたちは、わからないから、 みんな、自分を責めている。 〜〜引用終わり〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜       黒柳徹子「トットちゃんとトットちゃんたち」講談社1997年  この本は、1984年から1996年にかけて、ユニセフの親善大使として各国を訪ねた訪問記である。  この本のなかでは、「可哀想だと思いました」「気の毒だと思いました」という言葉が何回も現れる。最初は、この言葉が高みから他人事として見ているようで抵抗があった。しかし、繰り返し語られるこの言葉に、なにか重いものを感じずにはいられない。一箱のキャラメルを手に二人のこどもといるならば、分け合うことは喜びである。しかし、百人、千人の飢えた子どもたちと共にいるとき、一箱のキャラメル、一片のパンは、希望というよりは、むしろ、どうしていいか途方にくれさせるものでしかないだろう。何もできない、そして自分が恵まれた立場であることを否定せず、佇む時に出てくるのが、「気の毒」という言葉なのだろうと思う。  「気の毒」という言葉は、気の毒だと言われる人々を軽視するものではない。実際、「気の毒」といいながら、そう言われる子どもから「あなたのお幸せを祈っています」と言われた時の尊敬の念をこの本は書き落としていない。「これでゲリラをお探しください」とユーモアのつもりの言葉を添えて渡した双眼鏡を、「いいえ、これで未来を見ましょう」と受け取られた時の気持ちも書き落としていない。  そして、飢えに苦しむ国の子どもたちの、誰一人として自殺願望を持っていない、という。  この本でリポートされている各国の状況は、今から見れば古いものが多い。しかし、このように社会があった、ということをことさらな言上げもなく無邪気に語られている、この本を、やはり読んでよかったと思う。                      2003/12/18 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]優れた戦意高揚文学「アンの娘リラ」モンゴメリー/白糸雅樹[2003年12月31日2時39分]  「赤毛のアン」シリーズは、アンの大学時代、婚約時代、新婚時代、など時代を追ってシリーズになっている。その最終巻(10冊め)「アンの娘リラ」はアンの末娘リラが、恋に憧れる十五才誕生日間近「崇拝者を持ちたがっていたのである! しかも一人ではなく複数にである!」から、「あたしはどうして恋愛事件を愉しい面白いものだなどと想像したのか自分でも分らない。恋愛事件はじつにおそろしいものだ」と二人の崇拝者でさえ持て余すほど一人への愛を強く感じ、その恋人の帰還を迎える十九歳までの、成長物語である。時と場所は第一次世界大戦のカナダ。  この小説は一見、戦意高揚文学ではない。戦場に夫や恋人、兄弟を送り出す女の気持や、「兵役忌避者」と非難される詩人の大学生(アンの次男)ウォルターの心情「そうだ。僕は戦闘が怖いのだ」も語られる。しかし、そうであるからこそ、物語の進行や登場人物の設定に現れる、愛国心からくる全体主義を見逃してはならない。リラの住む村の変わり者、「月に頬髭」と綽名される男に関してはこう語られる。「「『月に頬髭』はわしはドイツ贔屓ではない、不戦論者だとか言っていますがね、奥さん。ろくなことじゃないでしょうよ。でなければ『頬髭』がなるわけがありませんからね」」「プライア氏は流暢な言葉をほとばしるようにしゃべりたてた。茫然とした聴衆が鼻持ちならぬ反戦論者の訴えに自分たちが耳を傾けているのに気がついてぎょっとしたときには、プライア氏の祈りはかなりのところまで進んでいた。プライア氏は少なくとも自分の信念に対しては勇気があったわけである。或いは後で人々が話したように、教会の中なら安全であるし、他の場所では群衆に吊し上げられる心配があるため口外できない意見をひけらかすのにちょうどよい機会だと思ったからかもしれなかった。プライア氏は祈った。この邪悪な戦争が終わりますように――西部戦線で殺戮を強いられている欺かれた軍隊が自分たちの非道行為に目覚め、間に合ううちに悔い改めますように――人殺しと軍国主義の道へとかりたてられた、ここに出席している若い兵士諸君は今のうちならまだ救われます―ー」この祈りは今からすると反社会的なものではない。むしろ尤もな部分があるにも関わらず、この小説では『月に頬髭』は変人として描かれている。また、徴兵制の是非を問う選挙の際、徴兵制を進める連合政府を支持する婦人は言う。「あの家の衆はけさ、伯父さんを納屋に押し込めて、連合政府に投票すると約束するまでえは出さなかったそうですからね。これこそ効果百パーセントですよね、奥さん」投票の自由はいともたやすく踏みにじられ、「大義」が賞賛される。  素朴な善意、素朴な愛、素朴な信念。作者の意図が反語として描かれたものでないからこそ、こうした陥穽には注意深くあらねばならないということを反面教師として教えてくれる傑作である。  付け加えれば、ウォルターは出征後、「笛吹き」という詩を書き、その詩に感激して多くの若者が志願兵となる。詩にはこういう力もあるのだ。ウォルターの手紙で、「戦死したものも我々と共に戦っており、こういう軍隊はけっして敗れないのだ」という叙述に対しては、私は「じゃぁドイツ兵は誰も戦死しなかったんかい!」という突っ込みを入れたくなった(笑)(のは二十代を過ぎてから。最初に読んだときには素直に感激していました(笑)                      2003/12/31 ---------------------------- (ファイルの終わり)