ベンジャミン[感想文集] 2005年3月12日10時11分から2005年7月31日21時33分まで ---------------------------- ?????????????????????????????? ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]たもつさん「サイレン」を読んで(感想文)/ベンジャミン[2005年3月12日10時11分] http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=31137 僕は批評なんて書けないよぅっていつも思ってます。 でも、読んだ詩について感想を持つことはとても大切だと思っていて、そしてその感想を書き表すことも、とても大切だと思っているのです。なんせしっかりと記憶に残りますからね。 そんな前説はさておき、たもつさんのこの「サイレン」という作品はとても素晴らしいというのが僕の感想です。(これで終わっちゃいそうな勢いだが、、、) 気を取り直して続けます。 この作品でまず興味をひいたのが、冒頭の「覚えてる」という切り出しです。「覚えてる」といきなり言われてしまった僕は、まるで暗示にかかったように自分の記憶の入り口を開いてしまいました。そして続けざまに、「ちょっとした仕草」や「身体の匂いとか」が表現されていて、漠然とではありますがその情景を思い描いてしまったのです。しかも(これは全ての連について言えることなのですが)その描写は一枚の絵を仕上げるほどには語られていないのです。読み手である僕が推測するまでもなく、自然と僕自身が持っている記憶の断片とつながってしまうんですね。そうやって、2連目3連目に続いてゆくわけですが、ここらへんはとてもほのぼのとした語り口で綴られていて、たとえば「小さな食事」とか「今年は甘いなあ」なんていうセリフとか、ともすれば中だるみしてしまいそうな場面の移り変わりをさりげなく演出しています。 そしていよいよ最終連(4連目)に突入するわけですが、ここでまさに鍵をにぎる言葉が出てきます。 「君の記憶のほんの僅かを  僕は自分自身の記憶として引き継ぎ」 4連目の頭二行に出てくる「記憶」という言葉、その「記憶」という言葉で、冒頭の「覚えてる」という切り出しからの一連の場面を、時間的なずれも飲み込んであたかも一枚の絵のようにくっつけてしまっているように感じました。 各連はけして冗長に語られず、それぞれ完成しない絵のようであるのに、通して読めばそれが一枚の絵のようになっている。しかもその絵は、読み手である僕自身が自然と描いてしまっているわけです。場を限定してしまうような言葉は使われていません。作者であるたもつさんの見た情景でありながら、それを作者の目を通さずに描くことができます。 それが、この作品の最大の魅力ではなかろうかと僕は思いました。 余談ですが、、最終行「他にすることがなくなってしまう」なんて言われたら、ポイントするくらいしか読み手の選択肢は残らないような気がするのは僕の気のせいでしょうか?     ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]ワタナベさん「さそりの心臓」に見る「詩とその呼吸」に関する感想文/ベンジャミン[2005年3月18日18時22分]    http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=32415 ワタナベさんの作品は、描かれている世界がきれいだったり、描いているものとの距離のとり方が好きだったりするんですけど、この作品についてもそれは顕著に現れています。 でも今回は、あえてその見方とは異なる視点から、この「さそりの心臓」という作品を見てゆきたいと思っています。 それは「詩とその呼吸」についてです。 おそらく誰もが、読んで心地良いと感じる言葉の流れを持っていると思うのですが、この作品に関しては、それが目で見てもわかるくらいに感じられると思うんですね。それは一文の長さに大きく現れています(一文の中にも感じられますが、それはさておき)。 冒頭の比較的長い一行目の切り出しから、2・3行目に移るごとに一文が短くなっています。それは、長い一文を読んだあとの呼吸を自然に整えてくれる、そして4・5行目ですが、ここはまとめて一文にしてもいいのに改行が施されているわけです。そこで改行されているからこそ、6行目以降にすんなり読み入ることができるんですよね。 こういった読むときの呼吸、その抑揚の在るリズムが、書かれている内容にある種の優しさのようなものを付加しているように感じられます。もちろんそれは優しさだけはでなく、書き手がどこに心情を強く注いでいるかということを、何となしに伝えてくれているようにも思えるのです。たとえば一連目の最後    静謐とした調和にしたがい    かたちづくられてゆくその    さそりの心臓は    しずかに燃焼しつづける (ちっ、漢字が読めなくて辞書をひいたぜ、、なんていう愚痴は関係ありません) 「静謐とした調和にしたがいかたちづくられてゆくそのさそりの心臓はしずかに燃焼しつづける」という文を、どのように改行するかで、受ける印象は大きく変わったりするわけです。特に「その」という指示語を、独立もさせず一文の中にまぎれさせることによって、逆に指示している「さそりの心臓」という言葉を浮かび上がらせているように見受けられます。このとき、「かたちづくられてゆくその」という一文はけして長い文ではないのに、通常の改行による間のとり方よりも大きく呼吸をさせられます。 この作品には、そういった文勢による呼吸のポイントが随所にもうけられていて、それが読者にとって心地よかったり、ふと驚かされたりしながら、飽きることなく読み通せてしまえる流れを生んでいるように思えます。 もちろん、それに見合うだけの世界を、繊細な言葉選びによって実現させているともいえるのですが、僕は何よりこの作品の中に出てくる「流星雨」という言葉が好きでたまりません。それは僕の詩情であり、私情でもあるのですけどね。     ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]ちょりさん「ポエムなめてる奴らは全員ぶっ殺す ただしやさしく そのあとで愛す」に寄せて (感想文)/ベンジャミン[2005年3月24日8時07分] http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=32236 ちょりさん、choriさん、ILL CHORINOさん、たぶん彼はどの名前で呼んでも返事をしてくれる。だからなんだってこともないし、だからって彼を褒めたり、彼の詩を素晴らしいだなんて思ったりしない。 そんな関係ない話から、彼の詩の感想を述べてみたいと思う。 「ポエムなめてる奴らは全員ぶっ殺す ただしやさしく そのあとで愛す」 まずはこのタイトルだ。やたら物騒で、それでいて慈愛も感じる。ここで言われているところの「ポエム」というものが、どういったジャンルの詩であろうと、そんなことは関係ないなと思った。つまりは、そういったものを書いている全員に発せられているのだ。 順序だてて理解すれば、殺したあとに愛すのだから死んだ者を愛するということになる。しかし、そう理解するような姿勢こそが、この詩のタイトルにもある「ぶっ殺す」対象となるのだろう。どう読むべきかなんていうのは読む側の自由で、ここでも特に強制はされていない、読みたいように読めばいい、けれど「愛す」という力強さに、僕はどこか安心していると思った。 読み進んでゆくと、「自分のこと」「自分の身近なこと」「自分の身近な人のこと」「自分をとりまく出来事のこと」というふうに、対象がしだいに広がってゆくのがわかる。しかし語られているのは作者の姿勢だ。僕からすれば、言わんとすることはわかるけれど、完全に感情移入などできないし、共感にも限度がある。そのままで締めくくられれてしまえば、取り残されてしまったような気がしてならないだろう。 ところが「わがままはひとを幸せにしたいときだけ言うんだ」という書き始めの連から、言葉の向きが一変する。それまで、不特定(強いて言うなら作者が想定している、あるいは現実に見た人の誰か)に向けられていた言葉が、その連からは「読者」に向けられるようになる。そこに、この詩の魅力があると思った。 そして、そこでもまた作者は姿勢を提示しているわけだ。そのあとに作者の意見が述べられているとしても、それは姿勢として受け止めることができる。 前述したように、どう読むべきかなんていうのは自由だ。僕は勝手に読んで、この詩からはいささかの強制も感じなかった。それはおそらくタイトルの洗礼を受けているからであろうとも思う。けれど、それだけでなく、詩の全体を通して感じられる言葉の向きの変化が、見通し良く移っているからだということも付け加えておきたい。 最初にも述べたが、だからって彼を褒めたり、この詩を素晴らしいだなんて思ったりしない。 僕はただ、こういう詩や、こういう詩が書ける彼を、羨ましいと思うだけだ。 彼は別段強制することもなく、常に呼びかけているように思う。 「いつだってこっちにくればいいさ、ぶっ殺したらそのあと愛してやるからさ」と 僕はたぶんそっちには行かないと思うけど、ときに羨望の眼差しを向けることだろう。      ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]たもつさん「十階の家族」を読んで(感想文)/ベンジャミン[2005年6月21日12時25分]    http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=25813 最初にこの作品を読んでから、いったい何度読み返したか知れません。 どうしてそれほどまでに読み込まなければならなかったのか・・・ それは「何となく」という部分が、自分の中で大半を占めていたからです。 「何となくいいなぁ」とか「何となくもの足りないなぁ」とか、そんな感じです。実際、何となく読んでしまうところもあって、たとえば「アイス屋」というのも、何となく「愛す屋」なのかなとか思っちゃったり、十階建ての家なんて怖くて住めないなぁとも単純に思ってしまったりしたわけです。で、「何となく」ポイントもしてなかったんですよね。 たもつさんの作品で、僕がことさら気になるのは言葉の距離感です。これは、読者としての自分との距離感なので、多くに当てはまるとは思っていませんが、冒頭三行目で「ではなくて」とはぐらかされてしまうところや、対話文のような構成なのに娘さんの生のセリフが出てこないで、「だそうだ」「らしい」「というのだ」といったふうに、伝聞の推測に近い表現がされているところなんかが、やはり「何となくいいなぁ」と感じたりします。でも、それが僕のポイントの根拠になっているわけではありません。 「アイス」という言葉のイメージ、はたまた「十階」という言葉のイメージ・・・ それらはどちらも、僕に「危うい」印象を持たせます。「アイス」は温めるほどに融けてしまうし、「十階」という高層の建物は崩壊の危険性を感じさせるからです。それは、言葉を象徴的にとらえれば、多かれ少なかれ誰もが片隅に抱く印象ではないかと思います。 もちろん、「アイス=甘い」とか「十階=立派、すごい」とかもありますけどね。 僕がどうして「危うい」印象を持ったのか、それは少なからず僕の人生経験に基づいています。それが、「家族」との関りであるが故にです。 積み重ねてゆくことは、見た目以上に緊迫感があるものです。頑張って維持しようとするほどに脆く、高さを増せばその分だけ不安定にもなる。そういった側面をとらえようとすれば、もしかしたらその方が容易かもしれないと僕は思います。むしろ、そういった不安要素を連ねて、今ある幸せを浮かび上がらせてみるほうが自然だとも思うのです。 しかし、この作品では、ほのぼのとした感じが前面に出ていて、それをそのまま受け止める方が自然のように感じさせてくれます。けれど、後半から終盤にかけては、一抹の不安も確かにのぞかせているわけです。 僕は単純です。難しいこともわかりません。 ただ、何度も読み返しているうちに「何となくいいなぁ」という気持ちが、「何となくもの足りないなぁ」という気持ちを上回ったのは確かで、そしてその根底には少なからず、これから先を積み上げていこうとする意思に対する、羨望と憧れと願いがあったからだと付け加えておきます。       ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]「陽子」さんへ (N哉さんの詩を読んでの感想文)/ベンジャミン[2005年7月13日6時45分] 「陽子、詩人と付き合ってはいけないよ」 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=36052 「父さん、詩人と付き合ってしまいました」 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=41610 N哉さんのこの二つの作品を読んで、ぼくは正直、鈍器のようなもので後頭部を殴られたような衝撃をうけました。前作「陽子、詩人と付き合ってはいけないよ」においては、父親から「陽子」へ宛てた手紙のような語り口で、必ずしも陽子本人に直接語りかけてはいないような雰囲気です。そこがまた、父親としての葛藤と思いやりが浮き立っているようでたまりません。何より、タイトルがあまりにもストレートであり、作品中にある三つの「詩人」の言葉も例として掲げるだけでは惜しいくらいの内容です。(せっかくなので抜き出させてもらいました)  「風が雨の知らせを運んできたよ   今日の動物園はキリンもライオンも泣いている   だからやめとこう」  「君は言ったね   どうして行かないの   それは僕らにはまだわらないこと   きっと明日になれば空が教えてくれる」  「僕は僕の影を追いかけていたんだ   影は追いかけるほど遠のいて   最期には海に飛び込んでしまった」 また、詩人の各言葉に添えられる父親の「これは悲しい」というセリフが効果的で、いやぁこれは確かに悲しいよなぁと納得してしまいます。たとえば日常の中に詩を感じるとき、何気なく口にした言葉が詩であるならば、それはとても素晴らしいことだとぼくは常々思っているのですが、この作品を読むと、必ずしもそうではないのかもしれないと考えさせられました。 そして後作「父さん、詩人と付き合ってしまいました」においては、まずタイトルを読んだ時点で「付き合っちゃったよ!!!」という激しいショックを受けたことは言うまでもありません。前作同様、語り口は手紙文で、陽子から父親へ宛てたものとなっています。しかもその内容が「心配した通り」という期待を裏切らない書き出しで、それが陽子の吐露として記されています。さらに期待を裏切らない展開としては、やはり作品中に三つの詩人の言葉が盛り込まれていることです。(またまた抜き出させてもらいます)  「人生もこの西日同様   眩しく儚く散る定め   おまえの涙も可憐に色づく」  「言葉で殺してはいけない   言葉を殺してはいけない   わかるかい   言葉は生きている」  「ざあざあ雨が降ってきた   僕の傘は開かない   おまえの傘には入れない」 はてさて、この三つの詩人の言葉にも、陽子のセリフが添えられています。「私、泣きました」と、また、( )書きで補足されている陽子のまっすぐな言葉にも胸を打たれました。そして期待以上の展開だったのが、「陽子も詩を書くようになったこと」です。まさしく「書いちゃったよ!!!」という驚き。もう何も言うことはありません。 ぼくも詩を書こうとする人間です。っていうか独身です。 そしてそして父親の気持ちも何となくわかってしまうくらいの年齢になってしまいました。とても複雑な心境なのです。(どう複雑なのかは説明しませんが・・・) 最後に、今の自分の立場からは何を言うにしても言いにくいことなのだけれど。 陽子さん、どうか幸せになってください。 追伸・・・今日は泣き出しそうな曇り空で、ぼくもそんなような言葉をぽつりぽつりと降らせています。何が悲しいわけでもないが、ただその言葉の傍らで君が濡れないようにさす傘をぼくが持っていないことが悲しい。                     近所のおじさんBより        ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]ザラメさん「弱いものから消えてゆく」を読んで (感想文)/ベンジャミン[2005年7月31日21時33分]    http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=43408 「でもルールー  思ってたより  生きることは難しいよ」 そんな呼びかけの言葉でこの作品は始まります。 ある日、ふと気づくのだと思いました。 きっと、自分の中に蓄積された経験や知識や感情や・・・言葉が・・・満ちて・・・そして、とても自然に自覚するのだと思いました。 「生きることの難しさ」 この作品を読んだとき、僕は「ルールー」のことを知らなかったし、読み終えた今でもやはり、ルールーが何者なのかわかっていません。けれど、作者が呼びかける先には確かに、ルールーがいるのだと思いました。呼びかけは、受け取り方によっては「呟き」のようにも感じられます。「孤独」という言葉を持ち出せば、それは容易に自分との対話として処理され、そしてその言葉の向きは内向きなまま、深さを求めることはあっても広がりを生むことはないと思っていました。 「そうだねルールー」 けれどこの作品の言葉はけして内向きなものではなく、そう、それこそが「戦いに似ている」ように思えます。いいえ、今こうしている間にも戦い続けているのだと。マンボウの生む3億個の卵・産卵のために行進する数万の蛙。身近な生の存在は、まるで自分を形作る細胞の一つ一つが日々繰り返している生死のように感じられました。 そしてそれだけでなく、まるで薄皮をはがせば、僕はきっと感情と思考のかたまりであり、そしてそのことに僕は本当の意味で気づいているのだろうかと考えさせられたのです。 「わかっているさルールー」 生きて行くうえで大切なことを僕は意識することができ、そしてそれを掲げることで正義を保てることを知っています。ただ、そこには多くの矛盾が潜んでいることもあるから、僕はなかなか思うように生きられないことに苦悩するのでしょう。 ときおり犯してしまう過ちに怯えながらも。 そのたびに人は少しずつ成長してゆく。 ある日、ふと気づくのだと思いました。 どんなに傷ついたとしても、歩いてゆかなければならないと、誰かを傷つけてしまったときでさえ、それにさいなまれながらでも・・・ それは、その言葉の響きの良さに反して、けしてきれいなものではない。 だからきっと、 「ゆっくりでいいよ」 それは本当の優しさ。 まるで誰かに呼ばれるように歩をすすめてゆくのかもしれません。 「ルールー」 たとえそれが誰であろうと。 その存在にはずっと前から気づいているのかもしれない。 そのことをあらためて気づかせてもらったのだと思う今、 僕はこの作品にとても感謝しています。 「ありがとう」     ---------------------------- (ファイルの終わり)