クローバーの石畑由紀子さんおすすめリスト 2004年5月3日22時54分から2004年11月17日21時48分まで ---------------------------- [自由詩]上海された/石畑由紀子[2004年5月3日22時54分] 深夜、男友達から『お前のことずっと上海してた』と電話。ひどく 驚き、『ごめんなさい』とだけ応えて電話を切る。自分の言動を振 り返り、しばらく彼には会わないでおこうと決める。図らずも点と 点が線で結ばれようとするのにはそれなりの理由があって、もしも 誰かに原因があるのだとしたら、それはきっと私なのだ。頭が冴え てしまったので恋人に電話をする。出てくれたもののすぐに寝息が 聞こえてくる。ねぇ、あなたのそんなところが好きよ。愛しい人に 『私のことどれくらい上海してるの?』と尋ねる恋愛感情を、私は 持ち合わせていない。  + + + 明日から職場が三日間限定で上海される。通勤カバンにサングラス を詰め込む。途中で銀行に寄って香港ドルに換金しよう。インポー トコーナーで見かけた今春のコーチの新作はパステル調でエレガン トだ、社員割引はないけれど絶対に買いたい。  + + + 動物園の動物たちはみんな上海されたような目をして、まるで野生 が感じられない。猿山だけにいつも健全な社会がある。ボス争いを して、子供同士が遊んで、井戸端会議があって、夫婦で毛繕いをし て、メスの争奪戦をして、交尾をして。そういえば、帯広動物園に は入り口に『せかいいちどうもうなどうぶつ』という檻がある。覗 き込むと檻の中には鏡があって、自分の姿が映し出される。上海さ れているのは私たちも同じなのかもしれない。だから猿山には大人 ばかりが群がるのだ。  + + + 上海された猫が車道で踏まれ続けてだんだんとその形状を失ってゆ く。トムだったらそこでムクムクって復活してまたジェリーを追い かけられるのにね。私は無責任に、少しだけ泣いた。通りを渡って 今日の予定に戻ってしまえばきっとすぐに忘れてしまう。  + + + バスは停留所で待つ私に気づかずに上海していった。慌てて小走り で追いかけたものの車に追いつけるはずもなく、すぐにあきらめて 視線だけでバスの尻を見送る。これであの電車には間に合わない。 約束の時間にはもう絶対に間に合わないだろう。この小さな歯車の 狂いで私は今、あの人との最後のつながりの機会を失おうとしてい る。それは同時に、この先の私を別な誰かや何かが当然の顔をして 待っているだろうことにも、繋がっている。 ---------------------------- [自由詩]書店にて/石畑由紀子[2004年6月9日21時52分] 自動ドア が開いた途端もうなにも聞こえなくなるくらい饒舌の坩堝なのだった 新参者が特等席でハバをきかせている いたるところで人が出逢い 魅了され きつく絡み合い 約束を交わし 駆け引きをし 嫉妬して 別れ 忘れられず 犯人を追い 追われ 脅迫し 秘密を知って殺されかける あぁ、と嘆き いぃ、と喘ぎ うぅ、と唸り えぇ、と頷き おぉ、と歓喜する 窓際では二週間分のターンテーブルがその見どころを伝え 人気のブティックホテルを調査し 血液型を知りたがり噂話に花を咲かせる いたるところで人がすれ違い 話し相手を探し 愛してくれる人を探し 金を探し 自分を探す ねずみ算式に増え続ける癒し系 ゴーストを使って次々にカミングアウトしてゆく芸能人 壁の設置棚では電車の発車時刻を知らせ 街までの道のりを知らせ 祝儀袋にいくら包めばいいかをアドバイスし 昨夜見た夢を教えろと身を乗り出し 宗教はそれぞれ唯一の神を説きはじめる ともに平積みされシカトを決めあう女性カリスマ作家 村上はもう一人の村上にこの羊男はオレのじゃないから戻れと文句を言い チーズとバターは他愛なくケンカを続け 彼女は息子を彼女の表紙でアルバムのごとくその成長を披露し 写真家はフィルターの使い方とトリミングに得意気で 音楽家は自らの旋律に酔いしれて溜息をつき 詩人は早く朗読してくれとせがんでいる 背表紙が色褪せ始めた無名の小説家は店の片隅で 早く見つけて欲しいと願っている 早く見つけてくれと叫んでいる 早く気づいてくれと     気まぐれに、 手にとった一冊の単行本からポタポタと滴がしたたり 私のスカートを濡らしてゆく それは著者の自意識と想いの深さなのかも知れず 私はこれを棚に戻そうかどうか   迷っている その迷いもすぐにかき消される 私は未だ見ぬ大量の活字の波に飲み込まれる (2002.03) ---------------------------- [自由詩]あの頃/石畑由紀子[2004年6月15日23時05分] 信号を無視してあらゆる交差点を渡った 緩慢な自殺未遂もことごとく失敗に終わり 裁縫バサミで刺した腕の傷も今はもうほとんど目立たない つながれた大型犬が吠える それにつられて隣の家の つながれた小型犬も吠える なんだか誰かに似ている 記録的な猛暑だった 37度の中を彼のアトリエで クーラーもなしでベルベットシーツの上に裸身で横たわりポーズをとっていた そのとき描きあげたばかりだった静物画には 私が食べてしまったはずの六花亭のショートケーキが今もそこに在る 肖像画となって胸を張る亡き人物のように額に収まって コップ半分の水、なんて例え話はもう聞き飽きた もう半分まだ半分なんて考えている間に私はそれを飲み干してしまう ポジティブ・シンキングも渇きには勝てない まして男なら据え膳には勝てない あの人は私を捨てたのだ 地平と西の空を燃やす巨大オレンジ 一緒に見たい、と即座に脳裏に浮かんだ顔は 恋人ではなかった     * 地下鉄では向かいのオヤジが10分も私を視姦してきたし 道を歩けば運転席から財布をチラつかせ声をかけてくる 確かに今は心臓だって買える世の中だわね、ところであんたらのプライドは赤札らしい 非売品の私にお手を触れないで下さい コスモの6Fでは相変わらず身動きがとれなくて参ってしまう ユニクロを着ることで威厳が保たれ安心している幾千万の人・人・人 今日もつまらない顔をして信号が青になるのを待っている 揃いも揃ってみんなきちんと待っている その群集から抜け出しかつて私は                              (→ はじめにもどる)        (2000.04) ---------------------------- [自由詩]朝のこない団地/石畑由紀子[2004年8月1日23時19分] 先週の午後 雨と一緒に 隣の男が降った 最上階に住んでいるとそれだけで いつでも飛び下りなさい、と 手招きされているような気がするので 荷物が重たくなった時などは ベランダに近づかないようにしている きっちりと鍵をかけて しっかりとカーテンを閉めて 自分の身は自分で守るのだ それができなかった男 荷物の種類は知らないけれど 男なりに重かったんだろう 実際ひどい音がしたから 自分の身は自分で守るものなのに それから毎夜 階段を登る男の靴音が聴こえる カーディガンをはおって 冷たい扉に耳をあてると 男の靴音は私の耳のそばで止まり しばらく沈黙が続いたあと 二・三度 力なくかかとを鳴らして ふっと気配をなくしてゆく リビングに戻って私もいつの間にか ソファで眠ってしまう 翌朝 玄関を開けると 決まってコンクリートの床がうっすらと濡れている 男の玄関の差し込み口には 溜まった朝刊がこぼれかけていて 私は私の身を守ることで精一杯なのに 踊り場の窓から漏れる光が眩しくて 私はすぐに玄関を閉める 男は何をまだ背負っているのだろう 閉めきった暗い部屋で一人考える ---------------------------- [自由詩]ぽたぽた/石畑由紀子[2004年11月17日21時48分] 両腕でバランスをとりながら黒鍵を渡る。ちろちろとつま先から炎、揺らめくモディリアニ。白鍵 は床上浸水していて、溶けてしたたるたびにじゅう、って、しずくの結晶なんだ。映る、壁に体と もうひとつのゆらゆらの影、踏み、鬼だよ、って口実で追いかけて。嗚呼、のぼせている。ちろち ろと炎のつま先から異国のメロディみたいな。両腕でバランスをとりながら黒鍵の上。溶けてした たるたびにじゅう、じゅう、って、床上浸水の白鍵を呼ぶ。 ---------------------------- (ファイルの終わり)