KETIPA 2009年10月5日0時07分から2014年3月17日22時04分まで ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]降伏宣言/KETIPA[2009年10月5日0時07分] 詩と現代詩、あと死をなめてかかっておりました。 一字一句どころか、間、音、すべてが毛細血管のように緻密に構築されていたものだったのですね。 言葉をとりあえずつなげば詩になると思っていたおれが間違っておりました。 もうおれは詩人を自称するのもおこがましいほどです。 それでもおれの体に、一滴ほど詩人の血が混入してしまい、それがどうにも抜けてくれないようなのです。 自然に消化されるまで待つか、それとももっと貪欲に血を取り込んで、まさしく詩人になるのか。 決められないものですね。 ---------------------------- [自由詩]ミニマライズ文法/KETIPA[2009年10月7日0時36分] わたしは生きています。 わ    き  ます。  た    て ます。     生き  ます。    は  て ます。   しは き  ます。   し      す。 あなたからは聞いておりません。 あなた  は い   ません。 あ  か    て    ん。        い   ま  。  な か は い  りません。   たからは い  りません。 あ  か   い                    せん。 そばにいることができません。 そば     が きません。  ばにい   が     。    いる と で ません。  ば    と     ん。  ば          ん。 わたしはいきています。    はい ています。  た  いき    。  た  い   ま 。        い す。   し      す。          す  ん。 ---------------------------- [自由詩]言葉はたくさん/KETIPA[2009年10月10日13時16分] たくさんある言葉 ないと不安だったから言葉が たくさん あると不安だった言葉が たくさんあった 言葉だったから不安だった あった言葉が たくさんある 不安だったから言葉があった ない言葉が たくさんある ある言葉がない不安 たくさんだ 安心だったら言葉が少し ---------------------------- [自由詩]工場は上下運動を続けている/KETIPA[2009年10月14日21時36分] 電源が回す鉄板が回転する 右から左から右 左 ピストンが ガコンガ コンガ コン と誤差の範囲で稼動している 積み上げられた工場の部品を 組み上げて工場が工場の部品を 組み上げて工場が工場の部品を 組み上げて工場が・ どこへでも油をさし続けている たとえばその 道路や少女や樹木や感傷 壁や鉄道や砂場や倉庫に どこへでも油をさし続けている ベルトコンベヤに絶えず流れる大小の生物 革)皮を剥がれたピンク色のものや 茶色い和紙にくるまった植物 裁断もしくは破砕して再構成する部品を 組み上げて工場が 断片から組み上げられた街から取った断片から組み上げられた街から取 った断片から組み上げられた街から・ 誤差がこすれた雑音がスピーカーから放送される 受信機がないため音は存在を検知されない ガコ ンガコ ンガコン ガ 部品を取る運搬機が停止して部品化し隣の運搬機が部品を取る 円形に並んだ運搬機が運搬と部品化と運搬と部品化と・ スクラップは定期的に地ならしをする ―   ― 可動式公園は絶えず 児童達と上下運動を繰り返している その間も道路が壁になり壁が川になり川が 油をさし続けている 錆びたブランコが一斉に揺らされるような音(検知不能) シャッターが閉まる シャッターが閉まる 六時間後に開くシャッターが閉まる 二度と開かないシャッターが閉まる ガラス窓が格子状に割れる 破片を組み上げて工場が 工場の部品を組み上げて工場が 灰混じりの空気層の中で 工場は工場を作るための工場を作るための工場を作るための工場を 生産は稼動の理由そして稼動は生産の目的 白熱電燈の火の色が 送電線と工場の 輪郭線を 輪郭線を  ふちどる光線 輪郭線を 油をさし続けている 工場で生産されたもの(工場)は工場のもの(工場) であり工場としてふるまうもの(工場) として生産されるもの(工場)である 直線をつないだ経路にそって鉄鋼が移動する 電源が成型装置に熱を供給して 誤差の範囲で積みあがる部品を組み上げ 倉庫群が整然と並ぶ 補修痕が見られない工場はない 凹凸のあるトタン板一枚一枚に 人柱を埋めて補修して稼動し 時々削って部品の成型の足しにされている シャッターが閉まる 六時間前に閉まったシャッターが開く 誤差の範囲で作動している ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]現代詩をそんな読み方してないゆえに/KETIPA[2009年11月1日21時13分] わかったことがある。 これまであらゆる現代詩を読んでいても、言語的な感動をしたことがない。 そのことが、自分の作品にある致命的な欠落(文字の連なりに付加価値を与える要素)の正体であり、そしてその、詩のバックボーンを支える言語的な感動を、どうにも理解できない。 ここでいう言語的な感動とは、つまりその詩で表現されている内容そのものに感動すること。いろいろなキーワードや言葉を用いて、一つの詩でなにかしらのこと、たとえば光景、風景、心情、叙情、なんでもいい。それらのことを読み手が感じ取って、それを見事に表現しているだのなんだのという(んだと思う)。そこには多分に個人的な経験が反映されることも多いだろうと思う。思うことしか出来ない。こんな内容をこんなに美しく、悲しく、○○しく、書き出している、だからすごい、ということを、感じたことがない。関係ないけど音楽に対しても同じで、歌詞にこめられた意味などに感じ入ることはない。これまでずっと、感動の理由を知らないまま感動している。 そもそも現代詩に親しみ始めた時も、思いがけない言葉のつらなりに対して面白さを感じて、読者になり、地味な書き手にもなった。それでも今でも、言葉で表現された事項に対して別に感動していないということは変わっていない。むしろ強化されていると思う。その代わりに、言語化できない震えのような感動を味わうことが中心になってきた。 そういう、何がいいのかわからないけど、説明はできないけど、脊髄をぴりぴりさせて、冷や汗をかかせるような詩が、どうもある。最果タヒさんの詩が特に、そういう感情を引き出す。それとも単に、実際にはみんなそんな感じだけど、それを知れないだけかもしれない。でもそれなら、そんなに簡単に感想や評論ができるような気がしない。 もしかしたら、単にまだおれが未熟で、その内的な感情を文章化することが出来ないだけなのかもしれない。それでも少なくとも、詩がどんな内容で、このことをこう表現している、という解釈が、感動をあらわしえるとは思えない。だから例えば、文学極道で行われている批評、解釈をみても、この詩のどこからそんなこと読み取れるのかな、と言う気分に襲われる。全編そんな感じだから、参加しようかと考えてみたことはあったけど、実行はしなかった。おそらく詩の読み方、書き方が全然違う人たちが集まってる場なんだと思う。それは現代詩フォーラムでも変わらないんだけど、また違った意味で。 この感じが共有できる気はしない(言語化できないから)。共有するつもりも別にない。ただしせめて、そういう感動を味わえる詩とそうでない詩の何が違うか、どこが違うかを、自分に説明できない限り、自分自身でそういう感動を引き起こす詩はかけない。その違いが手法なのか軸なのか、あるいは両方なのか、どちらでもないのか、それくらいは意識できしないと、それを心がけることすら出来ない。だから満足がいく詩にならない。この言語化できない感動を言語化する必要があるのか。 表現したい情景や心情などない。表現を通して情景や心情、そのほかの説明可能な何かを浮かび上がらせること、それ自体が目的ではない。かといって表現の新奇性を追い求めるつもりもない(それはすでに行き詰まった)。それらはおれが現代詩に感じる感動の要素ではない。それは単なる解説であり解釈であり、クラシック音楽における「この作曲家はこれこれこういうことを表現しようとして」という類のものと大差はない。そんなこと知らなくても読み取れなくても、それでも心を奮わせるものしか、今のところ受けつけていないし受けつけない。そしてもしかすると、こういう読み方をしている人は多くないのかもしれないと感じている。実際のところはわからない。 もうちょっとで完全に迷う。意味がわからない。理由などどうでもいい。感動できればいい。でもせめて感動している理由がわからないと、感動できるものがつくれない。先人はとっくにそんな議論を済ませているのだろうか。 ---------------------------- [自由詩]ぐっすり消化する/KETIPA[2009年11月27日23時17分] そして彼は吸収された 吐き気のする赤色の肉をしたたらせて 眠っている針葉樹林 脳を想像したことのない微生物の饗宴が 夜行われている赤い 肉は彼に吸収された 同調する振動が落ち葉 茶色くふやけて音楽的でない 時間を早送りしても変化は遅々とし  やまぬ 雨の代わりに雪は降って 点々と明かりの したたらせて夜は赤い つぶやいて 泡を口ずさむ針葉樹林 水滴と共に浮遊していった無数の肉体 彼らが科学の自覚はない 散布されていく彼は明かり 呼び寄せられて泡と振動の絶え間ない  鳴る夜 少しだけ和音の兆しで 月は参加しない 枯れ葉と若葉の散る緑 やがて 夜は赤くない この次の彼まで ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]【批評祭参加作品】逆KETIPA??極私的な詩のつくりかたとよみかた/KETIPA[2010年1月9日23時13分]  しばらく詩作から離れていて、一ヶ月ちょっと前に自分で書いた詩(「ぐっすり消化する」)を読み返してみた。まず、あれこんな詩書いたっけ、と首をひねってしまった。それから単語の切れ切れを見て、ああそういえば、こんなこと考えて書いたんだっけとぼんやり思い出し始めた。やはり個人的には、一度書き終わった詩はもうすっかり作者から離脱してしまうらしい。そういえば以前書いた詩の事も、ほとんど思い出せない。これは何かに似ている、と思い当たったのが夢だった。  ちょっと前から、起き抜けにノートをひろげ、夢を出来るだけ忠実に書きとめようとしている。安部公房もやっていたというし、結構ポピュラーな習慣なのかもしれない。そこで書き残された夢は、しばらく覚えていることもあるが、大抵は印象を含め全て忘れてしまう。それでもそのノート(字が荒れていて古文書のようになっている)を紐解いて解読すると、ああそういえばそんな夢みたな、と思い出せる。ということは、自分にとって夢も詩と同じ創作物なのかもしれない。いや逆に、詩の作り方が夢に似ているのかもしれない。白昼夢ってことか。  そう考えると思い当たる節も多い。詩を作るときに何を考えるかというと、光景、言語または物質の断片、それらの接続と組み替え、全体のバランス、そんなところだ。恐らく多くの詩人さんたちが創作時に考える(はずの)、感情とか根底にあるストーリー性とか、そういうものは考慮されないことが多い。だから共感できる感情や、まして解釈というものは、おれの詩にはそぐわない気がしている。一部を除き。  他の人の文を見ていると、詩の批評にしても、その評価の中心的な部分は感情か解釈に依拠していることが多い(ように感じる。偉そうにいえるほど読んではいないが)。というかそれが批評なんだろうから、別に変だとは思わない。しかし自分の詩の作り方が前述のようなありさまだから、解釈中心に展開するような詩の批評はできないか、できても極めて浅いものとなってしまうだろう(それを承知でこんな文章を書いている)。  そんな調子だから、おそらく人と詩の読み方が違うのではないかと思っている(このことについては一つ前の散文「現代詩をそんな読み方してないゆえに」に書いた)。例えばここで、最果タヒさんの詩の一部を引用してみる。       (前略) (    き        こえる 怒声   ひとがですね   ひとをおこる   ときはですね         + +   、土星のわっ *   かがですね、     ++   あたまにでき   るんですよね   。わたし、そ  +   +   れを目で追っ)   ていて、何度も殴られるんですけれど、 わたし、そうすると、わたしにも、わっかが 出来てですね、++* 両腕両足縛られるん ですね。++* するとかれらはわたしに飽 きてしまうので、土星だけのこして、   土星土星土星   、いっぱいの         土星だけを残して、去って いくのです。いい、迷惑です。… …  ……       …  ……        …  *   処女    細目 」   わたしの、素肌 を舐めるより 確実 なわたしの     味        です。ですますます。べつに     詩人 * ですからうまれたときから表現者ですからべ つにべーつーにー いいです     愛さないでも 最果タヒ「苦行」 初出 現代詩手帖二月号(2005) 投稿欄 Copyright 最果タヒ 2007-04-26 20:04:56縦  この詩からどんな感想を抱くのか。たぶんいろいろ解釈は可能であるだろうし(言葉の配置についてとか、少女性についてとか)、悲しげであるとか具体的な感情を持つこともあると思う。でもそれらは、おれの感じたふるえのような抽象的な感覚を裏付ける説明にはならない。複雑に音が絡み合う電子音楽を聴いたときのような、このはっとする感覚は、具体的な感情や何かしらの解釈から起因するものではない気がしている。それを説明するには、それこそ違った方法論が必要なのかもしれない。  純粋な(生楽器をまじえない)電子音楽は、0と1からなる波形の組合せで構築されている。もしくはその組み合わせに使う要素は、16進数であったり、32進数であったりするかもしれない。今パソコンで書いているこの文章だって、機械語を人間語に翻訳しているから、意味を他人に伝えることが出来る。だけどその根底には、機械語による処理がある。  詩にしても、現代詩にしても、批評にしても、言葉が紡がれる前に機械語の処理をへてアウトプットされている、という気がする。その言葉なりからうけた印象(機械語)を、どうにか人間語にして伝える、という一連の表現。  詩を書く場合は、内面に生じた機械語を人間語になんとか翻訳して伝える。批評の場合は、他人の内面を人間語に翻訳されたもの(つまり詩)を読むことで生じた印象(機械語)を、さらに人間語に翻訳してアウトプットする必要がある。後者の場合三回の翻訳を経ているため、当然最初に生じた作者の機械語(内的感覚)は、批評する側のアウトプットに至るまでに相当変質している。また、この四つの言語(作者の機械語、作者の人間語、批評者の機械語、批評家の人間語)は当然別物であるため、一意的な翻訳など成されるわけがない。それが当然だ。それが当然だからこそ、さまざまな解釈による批評が可能なわけで、そしてそれらのほとんどは、おれの受ける印象を説明してくれない。自分で翻訳していないから。  いまおれの場合、自分の機械語すらまともに翻訳できず、どうにも不完全燃焼な詩になってしまう。その連続で情熱が失われつつあるのも確かだが、はっきり言って「現代詩をそんな読み方してないゆえに」以来進展がない。夢の蓄積は徐々に進んでいるので、それを形にしてみようか(夢はいやに抽象的なので、結構詩に使えそうなモチーフが転がっている)。  コンピューターの世界では、機械語を人間語に翻訳するソフトなリシステムなりを、逆アセンブラという。おれの場合は、KETIPAの中に生じた夢のような機械語を、出来るだけ忠実に、いらん解釈や無駄な技巧を排除して、人間語に翻訳するこころみを繰り返す必要がありそうだ。逆KETIPAといったところか。それが出来るようになれば、もうちょいましな批評が出来るようになっていることだろう。あんま関係ないかな。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]【批評祭参加作品】批評もそこそこに現代詩の先行きが不安だ/KETIPA[2010年1月11日23時27分] おそばを食べていたのね、ギターの音がしたの、夜になって、電気を消した、私は眠る時間で、猫は目を覚ました。 「空が光っていればよかったんじゃないの。」 夜は出歩かない住宅街の人たち、仲良く同じころあいに眠り短い人生を消費していく、「かみなり、走った跡、」みどりいろの今朝はみずいろの上層部から、落ちてきた透明の何かをありがたがっていた。 「死んだのは蝶だけです、人じゃなくてよかったですね」 電話 の 宛先がない (後略) 最果タヒ「あの海は、破損した恋について」(現代詩手帖2009年9月号)  はいこの冒頭を読んで「そば」「ギター」「夜」を結びつけて情景を浮かべた人挙手。あと「電気」「私」と「猫」も情景に組み入れたよと言う人はもう起立で。じゃあそのまま聞いてくださいね。  人によってはかなり細かく頭の中に再現されましたでしょうか。例えばそばを食べてる「私」は自宅で、隣のミュージシャンかぶれが鳴らすギターを聞いたと、で窓枠に猫でも乗っけましたでしょうか。何かその後でいろいろ組み合わせにくいモチーフが出てきて、もう混乱してしまったでしょうか。それともそれらのモチーフの組み合わせから、何かしら作者の意図なり表現している世界を考察できるとおっしゃるでしょうか。そしてそれが現代詩の批評であるというのでしょうか。  だとしたらおれに現代詩の批評は無理です。違う世界です。だってこれを読んだとき、「おそばを食べていたのね、ギターの音がしたの、」でもう半笑いなんだもんおれ。そのモチーフの接続そのものに面白みを感じてしまう。内容とか展開とかはその次。別個のものとして、別次元のものとして「そば」「ギター」がぽこんと出てくる。文脈から離れた言葉そのものがもつ固有の周波数同士が組み合わさって、「そんな音出せるのか」と驚くような音色で、コード進行とか完璧に無視したようなメロディを打ち鳴らしていく。  人によっては雑音と捕らえるかもしれないような、でも文脈もコード進行も気にしなければ最高に心を捉える音楽、それが最果さんの詩だと思っている(あれ、なんかこれ、そこそこまともな批評になっちゃってんじゃないの。おいやべー、言ってること矛盾してるな)。もちろんそれとは違う視点で、違う世界を見出して最果さんの詩に惹かれる人もいると思うし、そういう人はこの詩にしてもまた違う切り口で批評が出来るんだと思う。  ちなみに、音楽の世界でも電子音をメチャメチャにつないだような作品ってのは、おうおうにして発行枚数が少ないようです。現代詩の詩集と音響系アルバムの発売部数は、ひょっとするとトントンくらいかも。音楽好きな人は山のようにいるけど、特定ジャンルだけ見るとそんなもんだったりするわけです。  ていうかあの、作家とか、文字を書いたり読んだり解釈したりすることに慣れてる人ばかりが、現代詩を読んだり語ったりしてる間はダメなんですよ、きっと。音楽好きは別に演奏家ばかりじゃないでしょ。それじゃいつまでたっても、現代詩が堅苦しいっていうイメージすらなかなら取り払われない。しかも、そもそも持っている性質として、大衆の好みに迎合するってのは現代詩として面白いことじゃない(と思う)。それは別にいいんだけど、現代詩を書く人間はコマーシャル能力がないんじゃないかとすら思ってしまいますよ。なんかこう「売れないなら別にいーじゃん」みたいな、もっと言えば「売れてはないけどおれは好きだ」的な、(無意識的に)通としての地位を保ちたいし、どっちみち多くの人は興味持たないだろう、といった姿勢があるんじゃないかとすら疑ってしまいます。  100人に見せて3人が興味持つなら、100万人に見せれば3万人が興味を持つわけです。とはいっても、現代詩で採算が取れる見込みが低いから、宣伝にお金かけても回収できないかな。というかね、100万人に当たらずとも、現代詩って面白いかもと思う人だけを狙い撃ちして引き込めばいいわけですよ。せっかくネットがあるんだから。足りないのは、露出の足りなさと見える選択肢の狭さ。  現代詩とひとことにくくっても、いろんなタイプの作品があるんだから、それをもうちょい選びやすい状況を作らないと、さらに事態は悪くなると懸念しています。クラシック音楽もおれから見ると似たような状況で、一部の有名曲ばかり何度も取上げられて、その一方20世紀の作曲家なんぞ滅多に省みられない。詩をプッシュするにしたって、中原中也とか萩原朔太郎とか、いつまでたっても近代詩どまり。別に中也がダメというわけじゃいけども、中也よりタヒさんのほうが性に合うという人をたくさん取りこぼしてしまう。で「詩ってつまんねー」というネガティブイメージを受け取ってはいさようなら。不幸なことこの上ない。  正直、現代詩フォーラムのカテゴリ別新着見てても、自分に合った作品なんていきなり見つけられませんよね。玉石混交過ぎて。適切な音楽レビューがマイナーなアーティストに光を当てる如く、適切な現代詩レビューによって新規読者を獲得して行かないと、現代詩は今同様細々とやっていくほかないでしょう。たまたま新着作品を見た時に、性に合う作品が見つからなければ、「なんだ大したことねーな」といってリピーターにはなってくれないでしょう。  今マイナーなインディーズバンドとか海外のマイナーアーティストとかに興味を持つ人が増えつつあると感じてるわけですが、それを知るきっかけは、統括的なレビューサイトなり専門誌なりに多数の選択肢が提示されてて、これちょっと聴いてみようかな、と、そんなもんでしょう。現代詩のさまざまなタイプの作品をレビューっぽく網羅的に紹介してて、そこから自分が好きになれる詩を見つけられるサイトってありますか? ないでしょう。専門的、文学的な批評はあっても、ビギナーのための批評がない、これが現代詩が細々としてる理由の一つでしょう(あるわボケという方がいらっしゃれば教えてください、土下座くらいはさせていただきますんで)。  ということで読み始めと最後でえらく内容が変わってしまいましたが、まとめなどは特になくこの文章はもうすぐ終了です。あ、この文章をお読みの現代詩ビギナーの方、もしいらっしゃれば、現代詩は感じたままに読めばいいので、よくわかんねー解釈はとりあえず気にしないで下さいね(あと現代詩は音読をおすすめします)。というわけでこの文章は終了です。お帰りの際は下部のニコちゃんアイコンをクリックしてってください(任意)。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]【批評祭参加作品】死蔵作品を救うのは批評じゃない/KETIPA[2010年1月13日23時51分]  端的に言って量が多い、ネットにある現代詩てのは。現代詩フォーラムだけでも、数えたことないけど何作あることか。で今の現代詩フォーラムでは、その中から作品をより分けるシステムがろくに整っていない。書いたら書きっぱ。ポイント数やら個人のオススメからより分けていきゃいいんだろうけど、右も左もわからない現代詩初心者、しかもつまんなければパッパとページを変えていくネットサーファー達が、あるかもしれないお気に入り作品を根気よく探すわけがない。  だから現状では、現代詩フォーラムは単なるデータベースに近い。積極的にそのデータベースから良質と思われる作品を引き出すシステムがないから、99.9%の作品は死蔵状態のようだ(しかもそのうちのほとんどは駄作かもしれない)。ある意味ここは、ネット詩の墓場だといってもいい。アーカイブは閲覧されなければ価値がない。  例えば現代詩フォーラムの詩から、テーマや作風ごとにアンソロジーを組んだり(なにも紙媒体にする必要は無い)、pixivのようにユーザータグ設定をするだけでも格段に視認性が上がるだろう。  そもそも詩を知りたいと思う人が、必ずしもその詩の解釈や批評を必要とするかは疑問だ。おれのように、たまたま現代詩に触れて「なんだこれは」という経験をすれば、そこから探しにかかってくれるかもしれない。詩の批評に触れて詩に誘いこむより、詩を提示したほうが手っ取り早い。音楽でも視聴は大きな誘引効果を持つはずだ。それなのに現状では、去年(2009年やぞ)30ポイントを獲得した作品の検索すらままならない。当然ポイントの多い少ないは、個人的感動に比例するわけでもないから、ポイントはあまり入ってないけど個人的にはこういうの好き、という作品との出会いは相当難しい。  カテゴリーにしても大雑把過ぎる。せめてインディーズ音楽投稿サイトのmuzieくらいに細分化してくれないとダメだ。なんでもいいから音楽を知りたい、というのでなしに、ロック調の音楽が聞きたいとか、そういう具体的なニーズを満たしてくれる環境が、ここは整っていない。その分思いがけない作品に出会えるというメリットはあろうが、視認性の悪さはそれを上回るデメリットだと思う。  断言してもいいが、批評だけでは新たな読み手、書き手を誘引できる効果は少ない。恐らく何度も言われていると思うが、システムの見直しか、新たなポータルサイトでも設立して、さまざまなタイプの詩に触れられる場を設けるべきだ。そこに必ずしも批評は必要ない。例えば近現代詩まとめ(http://uraaozora.jpn.org/index4.html)や、ネット詩:選出作品リンク(〜2008.12)【完成版】 (http://caseko.blog90.fc2.com/blog-entry-307.html)のほうが、現代詩フォーラムの新着や、ぽっと出の詩批評より遙かに有用だ。そこのところの、データベース運用のセンスを持った人間が、現代詩フォーラムにはいい加減必要だ。何回言ってんだ過去の人(あまり知らないけど、言ってんですよね?)。  あと現代詩フォーラムというか、現代詩の書き手達は、読み手として想定される人間を限定しすぎてはいないか。自分がそうだからと言って、人が同じ読み方をしてくれるとは限らない。むしろ解釈は邪魔だという人だっているだろうし、そんなとこに面白みを見出されるとは、と作者の想像を超えた感動を勝手に受けてくれるかもしれない。そしてそれは邪道な読み方だなんていってるうちは、客はどんどん店にこなくなる。言葉遊びでいいじゃないか、ノリだけで感じたっていいじゃないか。意味がどうした、解釈がどうした、そんなんより先に、現代詩を、それなりに読めたレベルの現代詩を黙って提示する。それだけのことが未だに出来てないんじゃないか。  まだまだ現代詩の認知度なんて話にならないくらい低いんだから(Wikipediaの現代詩の項目とかがっかりするよね)、もっと門戸を広げましょうよ。潜在的読者はいるはず。どう理解してもらうかとかじゃなくて、もう理解できる素地をもっている人間は絶対いるはず。そこの結びつけをすることが、現代詩を広めるための第一歩なんじゃないかと思う。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]批評祭後雑感??現フォはこれから/KETIPA[2010年1月21日23時06分] 批評祭前後で、自分と似た詩の読み方をしている人がどうやらいるらしいということを知れたというのは、結構大きな収穫だったと思う。時々新着作品のタイトルにマウスを滑らせて、最初数行を見ては「はあ」と感じることしきりだったので、少しは救われた気分。 それから、批評祭のエントリー作品やらそのコメントやらを通じて、なんか批評とレビューがごっちゃになってないか、と感じることがちょくちょくあった(ジョグジャカルタを連想させるな、ちょくちょくあったって)。 睡蓮さんから「死蔵作品を救うのは批評じゃない」のタイトルは良くないと言われたが、別によくないことはないと思っている。でも「死蔵作品を救うのはレビューじゃない」なら、それはまずいタイトルだと思う。 レビューはあくまで、良質な作品をすくい上げて、その作品を知らない人に興味を持ってもらうものであると思っている(詩初心者に向けて書くのがよりいいと思う)。批評にもその機能がないとは言わないが、文学的な批評、解釈的な批評、批評のための批評は、別に「現代詩意味不明なんですけど」とかいう、現代詩のゲの字も知らない人に向けられたものではないと思う。それはまた違う意味で重要とはいえ、新規読者構築という意味で現代詩救済に貢献できるかという点では、不足だと思う。 そして現代詩フォーラムでは、その批評とレビューを混ぜて扱ってしまっている。しかもレビューとか批評とか関係ない散文も大量に混ざっている。だから批評カテゴリを初心者が漁ったとしても、良質なレビューにたどり着いて現代詩により興味を持つことはなかなかなさそうだ。例えばツユサキさんのレビュー(本来的な意味での)は、純粋な批評とは分けて考えるべきだと思う。ああいう純粋なレビューを、もうちょっと前面に押し出してもいい、押し出すほうがいい。 ただレビューそれ自体があまりにも作品的になってしまうと、それはそれで取り付きにくい批評になる懸念がある。それはジレンマのようでもあるけど、読み物としても面白い現代詩レビューは、不可能ではないと思う。面白いブックレビューを書くほうがハードルは低そうだけど。 ただ、「百科辞書つくりたいならWikipedia」「検索するならまずググれ」と同様に、「現代詩書くなら読むなら現フォにて」は、それなりに現実的な選択肢になってると思う(文学極道よりハードル低いし)。そういう意味では、潜在的な書き手、読み手を寡占的に集められるという現代詩フォーラムの強みはある。とはいえ現状では、一度来た客を恒常的なリピーターにするだけの求心力にかけている気がする。Wikipediaでもそうだけど、多くの人が集まることによる強みというのは、一から築こうとしてもなかなか簡単にはいかない。その「数による強み」を生かしつつ、「数集まることによるノイズの増加」に対処することが、現フォのこれからの課題だろう。Wikipediaのように、無数の編集者がノイズ(荒らしとか無為な書き込みとか)に対処していく自浄効果が、現フォにも出てきたらしめたものだ。 なんせ「現代詩」でググると、ほぼ毎回トップに出る現フォ。もうちょい現代詩に対して影響力をもったっていいじゃないか。死蔵文書を救い出すために働きかけるための文章が死蔵になっててどうする。 ---------------------------- [自由詩]出力結果/KETIPA[2010年1月29日22時19分] workid=2010012900153 time=0:00:02.89 output="僕僕僕僕僕僕私私私私私私、 きみきみきみきみきみきみきみきみきみ あなたあなた あなたあなたあなた あんた 好き好き 好き大 大好き大 ぁいっ   が好き好き。。。。。です。 、、、 ですです こんなこんなこんなこんなにこんなにそんなそんなそんな! どれだけどれだけ ですですこのこの  愛愛愛愛ががががががが が が が してもしてもしたってしたって 涙涙を涙涙泣泣泣泣泣か泣か涙涙涙涙寂寂 ないないない た ないないない しいしいしい さみしいさみしいさみしいさみしさ かないかない くく き たいたいたいたい い い 夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢夢を夢を夢を  あるあるあるある なら   抱く抱く抱 かない のののののののののののおのおの 恋 恋恋恋恋恋恋恋愛恋愛 ではでもでも  だだだがだがだけど  ははははははははももも    すす アメカミキリムシカメムシキミキミココアタバコトイレハハハ、レモン雨煙草机奇蹟奇蹟骨砂漠自己秋秋心地好朝朝朝水水滴電燈氷氷夜利益 あらゆるいのいませんうかなわからきくくしいざわざなやりまみめめるりわずわずかなわなわん 生き生きて生きる生きる生きること生まれ生まれ生まれる え? 。" comment="これは文章抽出、再構築プログラムによって自動生成されたものです。本作品の無断転載を禁じます。 Copyright (C) 2010 KETIPA All Rights Reserved." ---------------------------- [自由詩]クジラちゃんの赤肉の血/KETIPA[2010年2月6日21時49分] どうしたよ 船あんなところにいる船 ほら波ないからよく見える ぽこぽこ ぽこあぽこ 雪だ 無人島じゃない孤島だ この丘 いや島の 樹木が腐ってる どんどん干乾びてるのに湿るばかりだ 白く腐っていく どうして私だけつやつやと ここでひとりの 汽笛? いや空耳 風だな 蒸気がぼおおとふるえていて 海がちょっとずつ変色している 庭で ぼーぼうに生えてた草はどこに蒸発しちまったんだ ふふ 地平近くの海にクジラがいやがる なんだ汽笛はあいつらか あのまわりだけ赤い海なんだな 肉を食っている ぴーころ ふふ 土が菌糸と雪に白くて うすい日暮れに どうしても寒色の雲がどいてくれない きりきりふーふうと風 ひとりのここで 私は腐らない 根を張らないからだ ぴーころ 白い岩 聞いてるか 私も飽きてんだ ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]パソコンは21世紀の恭次郎を堕胎させるか/KETIPA[2010年2月12日0時55分] 写植技術が発達したことが、新国誠一のような象形詩が登場するきっかけの一つになったとされる。象形詩、あるいは視覚詩というのは、それこそ単語や文字を、大きさや角度も自由に変えて配置し、一つの詩画面を構成した作品だ。またそれより早く、萩原恭次郎も言葉やらなにやらをおそろしく自由に並べた詩集『死刑宣告』を刊行している。新国の『0音』が1966年、恭次郎の『死刑宣告』はそれより40年以上早い1925年。これも文字の角度を90度変えたり、実に衒うことなく文字や言葉が並んでいる。 ひるがえって今はどんな感じか。パーソナルコンピュータやケータイの全盛期である今は、こんなどこの誰が書いたかわからないような文章が、いつでもどこでもほぼタダで閲覧できる。当然もっと高いレベルの作品にさえも、手軽に触れることができる。なるほど技術革新というのは創作物のあり方を変えるのであるなあと、明治の文豪風の口調で言いたくなるところだ。 しかし、前二つの文章のつながりが変だということからもわかるように、詩を含む文学作品を創るに当たって、パソコンがもたらした技術の革新というのは、先に挙げたような伝達に関わる部分が中心で、あとはせいぜい、活字の印刷が個人単位で容易に出来るようになったということくらいだ。 あるいは、活字を出力するのが非常に手軽、かつ高速になったことも挙げられる。だからなんだか知らないが、文字はそこにあるのが当たり前、後はその文字の連なりにこめられた意味について議論されることがもっぱら、のように感じる。まずキーボード(あるいは携帯のボタン)で打ち込まれる文字ありき、作品はそれによって創る、というスタンスが非常に定着しつつあるように感じる。 これをどう受け止めるかは当然人によってまちまちだと思う。やっぱり手書きでないとうまく書けない、という人もいるだろうし、一方で手軽に効率よく文章を書けるということで、パソコンを中心に創作するという人も珍しくない筈だ。 これはつまり、より多くの人が均質な材料、均質な環境で創作を行っているということじゃないのか。しかも、電子的な技術によって材料は限定的になり、決まったラインに決まった文字を並べることしか出来ない。手法的にはより制限が強くなっている。一見、技術革新によって便利に自由に創作が出来るような雰囲気があるが、実際には造字することすらままならない(写植ならこれまでにない漢字を印刷することも可能だ)。だから個々の文学作品をパッと見たときの印象は、やはりあまりにも均質だ。ここは現代詩フォーラムだというのに、恭次郎の詩作品を引用することすら難しい。「ラスコーリニコフ」なんて画像じゃないと基本的に無理だ。 これと逆の現象が起きているのが音楽だ。パソコンより少し前にシンセサイザーが登場し、さらにパソコンの普及によって、ありとあらゆる音色をパソコン一台で再現することも出来るようになった。フルオーケストラを個人で持つことも可能だし、これまでどんな楽器からも鳴らなかった音だって、波形編集やらサンプリングやらで曲中に使うことが出来る。仮想シンガー初音ミクまでいる。それこそ、人間の方が音を使いこなし切れてないくらいなんじゃないかと思う。映像や絵画についても、似たようなことがいえる。 そりゃもちろん、音楽や他の芸術に比べて、文学は異質といえば異質だから、執筆環境の部分的な均質化はさして問題じゃないのかもしれない。でもそうやって、文字が意味を表すための記号としての機能に還元されていくと、どんどん新国や恭次郎のような試みが生じる余地が狭まってくるというか、そういう試みを今やることは無価値だというように捉えられてしまう素地が固まってきてしまうのではないかと感じている(ここはまたちゃんと書きたい)。文学者、詩人の中で。 多分、言葉を素材として用いる別分野の芸術家からは、野心的な言葉の芸術が生まれてくるように思う。ただし、詩人として言葉を(素材かつ文章として)自由に使える人は、もう出てこないような気がする。 1,2年前にちょっとした新国再評価があったけど、あれはものめずらしさだけで終わってしまうのかもしれない。個人的にはそれはもったいないと思う。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]現代詩とマルコフ連鎖モンテカルロ法/KETIPA[2010年3月8日0時49分] ちょっと目を離したすきに、新着作品はリストの果てに沈んでしまっている。1-2週間分の作品をまとめて見ようなんて気にはなれない。それが多すぎて、かつ自分に合う作品が少なすぎるから、なんとも労に見合わない。そうなると常連というかお気に入り作者の新作に目を通して終わりになったりするから、必然的にバイアスがかかる。今まで知らなかった、ポイントの少ない作者の作品はますます目立たなくなり、有名作者が固定化するというよくある二極化。避けられないものかねえ。 で話は変わるけど、マルコフ連鎖とか形態素解析を組み合わせたアルゴリズムによって、日本語文章の要約、再構成とか、TwitterのBotなんかが色々できている。テクノアレルギーなどをお持ちの方なら、「マルコフ連」あたりで読み飛ばしモードに入っただろうけど、つまりは、ある程度文法が合ってるかもしれない文を、プログラムによって組み立てることも出来るよってこと。 大体はカオスな文章になるだろうので、抒情とか物語性を重視する詩人さんたちには一笑に付されることかと思う。だけどもカオスの申し子みたいな詩人さんなら、突飛な単語の組み合わせに面白さを感じえるかもしれない。じっさい詩人ではなく、一般のネットユーザー達は、そのメチャクチャな文字の組み合わせを面白がっている。だからこそ、マルコフ連鎖とかをつかった文章作成プログラムがわりとそこらに出回っている。これを単なる戯れと見ることも出来るかもしれないけど、もっと詩に特化したプログラムを組めば、架空の詩人をでっち上げることだって可能だろう。もうちょっとプログラムを勉強すれば、下手をするとおれでもできるんじゃないか。あ、ちなみに以前投稿した『出力結果』は、プログラムが出力した文章を模した手書きの詩です。多分ばれてたとは思いつつも一応ね。で、プログラムが書いた詩に感動するとすればそれは…… うーん、「こんな議論は前にも何回もされとるわ」感がしてきたな。まあそれは一つの話で。少しベクトルを変えて、もう一つ思いついた可能性について。 早い話が、プログラムに詩を選んでもらおうか、という思いつき。自分が苦手なタイプの詩によくある傾向を学習させて、それらを除外したリストを提示するということ。これはマルコフ連鎖とは違うプログラムを必要とするだろうけど、不可能ではないはず。当然よい詩を取りこぼす危険性も孕んでるけど、それは現状でも同じなんだから、探す手間を少しでも省けることを考えると、あながち無駄とはいえない、個人的には。 それともTwitterのごとく、次から次へと情報(詩)が流れていって、捕捉できないものはばっさり切り捨てていくというスタンスで利用するほうが、今風なのかね。あんまり詩にはそぐわないスタンスやな。 なんだこの情熱の欠如は。おいおれ。 ---------------------------- [自由詩]せん/KETIPA[2010年4月24日23時35分]    | 切り取ってはしたになった線―――――― ところが 流れる樹液の 浅い、 木目が裂け んで ぱらぱら吹きこぼる る粒子団の警笛が波――――――   |  からの号令   目を喪失中―――― 石から菌糸がほつれてほころぶ のに葉が次の花粉―― 言いたい  電線経由で受粉した夜明け    ||| 死んだ星々がゆらゆらと雲に――――――――――――    | |    一一一 分けて流れる 山羊と放射線―― 曲がった電柱這い出す無数の木――― と ことん  右目のない犬がにや――       |       |  あ――――   一かたまりの木綿糸 ――  ほつれ てほころ―――――――ぶ―――   せん ---------------------------- [自由詩]半袖のかいだんです/KETIPA[2010年5月26日0時44分] スロープが設置され 単離された感情が乗って行くスロープ サングラスが監視する目を伏せ 切り刻む風景を随時放り込む 横縞の観覧車が上下に回転する 警笛がしずかに きわめて静かに鳴っていく ここは海浜公園 自意識のかけらがコースターにのって回る 残された娯楽の痕跡です 全自動のそれに紙を通す それの中に紙が通される 紙を通して出口から出す ただそれだけのためのそれも 現役で稼働中 うすっぺらのそれは枯れた紙を何度も吸い込んで吐く 嘔吐メイションさなかのこちら―― 背中には旅客機 雲のチリが一々引っかかり積もる 廃スクラップ工場には今日も長蛇の列 自主的にこれは鉄になるんです 翼があるもの飛んでくる サングラスが監視する目を盗み 布ごと駆け込んだその いぶつ 四つの眼が捕捉したあと録音テープが再生される 「半.袖は:.駄;目です,。」 ただちにそれがなかったことになり 分解過程に入る あとはスロープに残渣ごとのせる 干乾びた眼球がこびりついたとなりに 滴るわずかな水酸化物 腐食するもの もの シャツだけはその後粗雑に始末された ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]「反逆する読者」宣言/KETIPA[2010年6月13日13時58分]  何度か言っているが、以前からストーリーや、作者が意識した情景、心象を伝えようとする詩に魅力を一切感じなかった。もちろんそういう詩が全て嫌いだというわけではない。題材として用いられている分には全く気にならない。しかし、それ以外に読むところのない詩が好きじゃない。詩的な表現で、情景や心象を、作者が意図したそれらを感じさせようとするだけの詩は、どうやっても流して読んでしまう。そしてもう恐ろしく何度もいわれていると思うが、そういう詩こそここ現代詩フォーラムでは評価されている。あくまでポイントという尺度で見れば。大体なんでログインしてない人はコメントすら残せないのか。そこはシステムとして見直すべき点の一つと感じる。  話がそれた。なんというか、本当に詩というフォーマットを借りた日記か小説、あるいは随筆みたいなのが多くて、なんというか、これ現代詩でやる必要あるんかなと思えるのがやっぱり目立つ。現代詩フォーラムでちまちま詩論めいたものを書いて、その反応とか別の方の文章とかを読むにつれ、やっぱり詩には読み方が存在するという考え方が、作者の意図をなるべく汲んで評価すべきという考え方が幅を利かせているらしい、と感じざるをえなかった。これには非常にがっかりした。  以前も書いたので細かいことは省略するが、現代詩を読むに当たっておれが魅力を感じたのは、言葉の組み替え、混合による不協和音、相互作用、そこから得られる非言語的な感動に対してであって、それ以外ではない。当然そういう読みかた以外の詩の楽しみ方を否定するものではない。ただおれは、既存の詩やこれから生まれてくる詩についても、おれの読み方で読ませてもらい、こっちの基準で判断させていただく。むしろそれが当たり前のはずであって、いちいち宣言しなきゃならないようなことでもないはずだが、あまりにも均質化されつつある現代詩について、何か言わなければならないような気になってしまった。このままではおれの読みたい現代詩が現れてこないのではないか、という気になったので、微々たるアクションを起こすことにした。 以下が宣言文。 おれは一人の読み手として、読者として、忠実に詩を読むことに反抗することをここで宣言します。 公園が描かれたら公園を想起すべき、といった、言葉を特定の物象とつなげるべきという読み方を拒否します。 この詩で作者が伝えたいことは何か、を考えることを拒否します。 文脈どおりに詩から物語を読み取ることを拒否します。 上から順序良く言葉を読むことを拒否します。 この詩はこう読むべきという評論、指摘を受け入れることを拒否します。 これを言い換えると、次のようになる。 おれは一人の読み手として、読者として、おれの読み方で詩を読み、よしあしを判断することをここで宣言します。 公園が描かれた時に洗面器を想起してもいい、といった、言葉の意味にとらわれない詩の読み方を厭いません。 作者の意図にかかわらず、自分が作品そのものから感じた印象を重視することを厭いません。 詩にこめられた物語性を一々意識せず、勝手に解釈することを厭いません。 詩の中間から最後に飛び、また中間部を読むなど、好きな部分を好きなだけ読むような読み方を厭いません。 詩にはある程度の決まった読み方がある、という考え方を無視することを厭いません。  読者は読み手である一方、作り手であっても構わないと思う。それはなにも、読んでいるだけではなく詩を書け、という意味ではない。詩から独自のイメージを、作者ですら予想できなかったイメージを想起することこそ、詩の読み手に与えられた自由であるべきだと思う。ある程度筋書きのある小説などでは、読み手によって作品を変質させるということは困難だ。まして映画(前衛のぞく)などでは、読み手の生み出すイメージが介入する暇などほとんどない。別にそれが悪いわけではなく、そういうジャンル、そういう形式の作品については、詩とは違った楽しみ方がある。しかし現代詩は、読み手のイメージを作品に反映して、そこから一人ひとり全く違ったイメージを形成できる、数少ないジャンルだと思いたい。そうあってほしい。その現代詩までもが、小説や映画の延長線上のような作り方、読み方をされることに、おれは納得がいかない。現代詩でしか味わえない感動体系がないのであれば、現代詩などに未来はない。小説や散文、随筆、映画に吸収されて、立場なく縮んでしまうだろう。同じ土俵で戦えば現代詩などに勝ち目はない。現代詩というフォーマットでなければいけない理由が確固としてなければ、現代詩みたいな表現方法はさっさと廃れてくれていい。  最後に一つ。おれのように感じている人がもしいれば、もっと声をあげてほしい。寡作のおれがこんなことを言うのもおこがましいけど、いや私の読み方はどっちみち少数派ですから……なんて言ってたら、本当に少数派になってしまい、余計に肩身の狭い思いをするだけになる。そして現代詩自体も過去の表現技法に堕するだろう。どれくらいいるのか知りたい。現代詩自体には独特の魅力を感じるけど、現代詩フォーラムで評価の高い詩にはあまり好きなものがないという方、そこのあなたは違いますか。アクションをお願いします。 ---------------------------- [自由詩]網状脳波/KETIPA[2010年8月1日21時15分] しなりと曲がる樹木 配列の整然とした 空気に雨が糸(のちの光ファイバー)をひいて回る ホラ 結合する木のなかで落下した 根と共に拡散する 電子粒子 土 土の下に巡る雨の糸がその脳神経 信号は意図した その文明 電気でできた 粒と線のぶんめい(文、名) ホラだらけの木々が微細な枝を空中に張る 相似な構造を辿ると脳波 脳波のホラ 原子大のホラアナが無数に空けられる 空中とか ファイバーが根 そして神経 結果血管 大小 つぶが tsubuga が枝を通過通過通過通過通過 拡散拡散 放射が形 粘りつく繊維の密な構造体が展開 わさわざさささと 糸 粒 繊維 そして文明の根幹 脳神経 根! 根のすきまに根と光ファイバーが 緻密にこんがらがるがらるるらる 糸いと糸糸粒粒糸糸 糸いと意図糸つぶ繊維 菌糸菌糸 そこに菌糸 つぶ粒 脳波 混濁しきったそれが音おと 区切っていちいち名を与える民 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]無言の読者が口を挟みます/KETIPA[2010年8月3日0時13分] 例えばmixiで、マイミクの多い人が「私はこれについてこう思うー」とか日記で書いたとして、それに対して肯定的なコメントや、賛同の声とかがたくさんついたとする。でその日記に対して、そんなにマイミク数の多くないある人が「上っ面だけの、人気取りのためのひどい意見」と、論理的にコメントしたとする。それに対して、肯定的なコメントを付けていた人たちが「ひがんでんじゃねーよ」と返す。それ自身はありそうなことだけど、あまりmixiでそういう光景を見ない。大体は「人気取り」とか思ってても直接言わない。それを言って受け入れられるところで言う。2chとか。 さて、何が言いたいのかもうわかってる人もいるかもしれませんが、緑川ぴのさんの「本当のかなしみを知るひと」という詩(?)に対して、AtoZさんが「緑川さん、みなさん、詩のことばを冒涜するのはいい加減にしませんか?」などで応酬している流れに、こういう構図と似たものが見えた。 個人的にはAtoZさんの文は楽しみにしているし、それこそトップ10にあがってくる詩より面白いと思っている。前からいっているとおり、ああいう意見表明か日記みたいな詩には特に興味がないので(できればよそでやってほしい)、それに対して辛辣な批評をしているAtoZさんのほうが面白い。考え方に近い部分もあるし。 といってもAtoZさんは非常に不器用な人に見える。緑川さんの作品について腹が立ち、それをどうしようもないから散文で、強い表現で直にぶつける、というのは、敵も多くできそうだし、それこそ2chで書いたほうが同意してもらえることも多そうだ。でもそれをしない。不器用にも見えるけど、真剣に持論を通す姿勢は潔くて好感が持てる。それがコミュニティに受け入れられなかろうと。 おれもたまに忘れるけど、ここはmixiと同じSNSだ。詩人が作品を通じて交流する、それが目的の一つになっている。ただしmixiと違ってマイミク制度がない。自分の好きな詩人の作品だけ眺めるということは基本的には出来ない。トップ10とかmixiにあったら、とんでもなくつまらないけどコメントだけはいっぱいついた日記がランクインするだろう。 さてmixiと違って、現代詩フォーラムでは作品が全部公開されているので、当然自分とは全く違った価値観で詩を読み書きしている人の作品がある。それもたくさん、むしろ自分に似た価値観で読み書きしている人を探すほうが面倒だ。そうなると、そのSNSに参加している人の価値観のうち、一番多数派の価値観が目立つ。探す手助けになるトップ10も、その価値観の人たちの作品で埋まっているのが常態と化す。そうなると、その価値観に合わない人は、反発して去るか、相手せずに自分のペースで作品をつくるか、主にそういう態度をとる。しかしその多数派の価値観に合う人は、その輪に加わっていく。そうして最も多数派の価値観が増幅され、それ以外の価値観は狭い思いをする。 AtoZさんがもっている「詩」に対する、そして「人間」に対する価値観は、現代詩フォーラムの多数派の価値観と相容れない性質を持っている。AtoZさんの持論は間違ってないと思うし、緑川さんの作品に対する批評も、もっともだと思える(個人的には)。でもそれが「僻み」ととられてしまう。それは単純に、緑川さんの価値観に合致する人が多く、AtoZさんの価値観に合致する人が少ないところでそれを言うからだ。早い話「KY」なんだと思う。器用な人は、2chで同じようなことを言う。そういう人に対する風当たりは、AtoZさんよりは強くない。そこをAtoZさんは、あえて風上の一番きついところで言う。だから非常に風当たりも強い。そう見える。 現代詩フォーラムにマイミク制度がないので、多くの人は「この人とこの人は自分に近い、感動できる」という人と「こんなん詩でもなんでもない」という人を、目でフィルタリングしている。芸術としての現代詩を追求する人や、自分の思ったこと感じたことをほぼそのまま形にした詩を書く人、言語的な試みを極める人、コミュニケーションの手段と割り切る人、いろいろだ。それで、自分と違う書き方で詩を書いている人に、「そんな書き方があるか、そんなもん詩じゃない」といったってあまり意味がない。目指すところが違うから。だからあんまり言われない。でもAtoZさんは言う。 このサイトの名前に、下手に「現代詩」なんて冠してるのもいかんのでしょう。「みんなで好きなように詩を書くフォーラム」とかにしないと、いろいろ誤解を招きそうだ。自分の作品を「現代詩」と自負している人ほど、「あんな詩が現代詩として評価されるのはおかしい」と思うことも多いだろう。そういう意味では、文学極道の方が目指すところがハッキリしてると思う。その目指しているところが魅力的かどうかはさておき。 そりゃ緑川さんの作品を「現代詩」の代表みたいに扱われたら、「一緒にすんな」「現代詩を何やと思ってるんや」とか思うのは自然ですね。おれだってそう思いますよ。でもおれは、緑川さんがおれと全く違うところを向いている事がわかっているつもりなので、出来がどうとか言うつもりはないです。でも同じ名前でくくっては欲しくない。それだけです。別に「下手に批判して、自分の詩にポイント入らなくなるのではと考えると、正直怖い。」とか、おれは別に思わないので(そんなことでポイントをいれなくなる人は、そもそもおれの作品なんて見てないでしょう)、好き放題言わせて頂きました。長くなって申し訳ないです。 ---------------------------- [自由詩]webbed/KETIPA[2010年12月18日0時15分] 転がると死にます 死がこわいなら転がりません立ちます 座るのでもよいでしょう はいそこの彼は転がったので死です 死んだら転がります つまり大体転がりました 鮭の切り身をむしゃむしゃやりつつ見て 子鹿が死んでいます きわめてデジタルに分解されて 数ピクセルの画素として輪廻転生 ウェブサービスに生まれ変わります 切り身は鮭ではなく肉なので輪廻しません ポテチや塩を大量に取り込んだ細胞があります 屋久杉位の大きさですが単細胞です 転がらないので死にません 面の皮より厚い細胞壁が もはやあれは金属です 不死身なのはこの細胞だけでしょう 微生物は土に転がっていたので全部死にました ぎりぎり立っていたクモはセーフです 散らされた子グモは今や二本足で通勤など ノルマが悩みの種だそうです いっぱい転がって死んでいるので生きることは容易です 一番うまい脳だけ吸ってあとは贅沢にも残します 満員電車は苦痛だそうです どろどろと流動する細胞に観光団が来ました 無論クモです 誰一人触りもしません 満腹だからです 緑色の粒などがひとつひとつ目となっていて 目一つあたりにクモ一匹が当てられています おもむろに糸など吐くクモら 的は緑色に光っており全員簡単に命中させたのでした 細胞とクモがハイパーリンクした瞬間です またクモらは近傍のクモらと相互接続して かつてのクモの巣のごとき様相を呈したのであり 波及的に拡大する網状のシステムができたのです どんなに遠くにいるクモにも一瞬で信号がきました 二重三重と電線のような黒光りする糸が 張り巡らされて はいそこに十万ボルトです 雷の避雷針のようなものですね 衝撃音がクモらを散らして蒸発させました 細胞壁はひび割れて破片がクモらにいちいち刺さりました ふにゃとグミのようになった細胞は ぽたりと転がって死にました 繋がっていたクモらも残らず転がって死にました 絶えました ---------------------------- [俳句]雪系小品(自由律)/KETIPA[2011年1月29日22時39分] 大雪の余りがこっちの粉雪 この闇の白きは雪とは違うかあれは ヘッドライトが放射する雪よ 雪やない星や 場違いの米粉が散乱している 雪や雪雪から雪が分裂して雪 街は光で 絶えず雪が降っている如し と寝床で聞いたあの日は雪で 僕が死ぬ日に雪はふりますか ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]【批評祭参加作品】批評祭をやろうぜ/KETIPA[2011年3月6日0時06分] (おれは関西人なので関西弁でやらせていただきます)。遅れてきて「やろうぜ」もねーよなー。もうやっとるっちゅうの。 相田九龍さんの秋波が押し寄せてきたのでちょっと覗いてみました。早速【批評祭参加作品】っていうタイトルがもりもり並んでてよさげな感じですね(【批評祭参加しない作品】にも注意)。作品に対するレスポンスのような作品もあったりして、うんうん、順調にやっとるなーという感じですね(誰やねん)。コメント合戦とか場外でも盛り上がったりするんでしょうかね。 場外といえば、一言ダイアリーで石川敬大さんが「もっと真剣にやろうや!」といっているのは(恐らく)批評祭についてなんじゃないかと思ってるんですけど、表層をなぞってイメージで語ることだってひとつの真剣な試みであるべきやし、そういう姿勢で批評に臨む人がいるからこそ、現代詩フォーラムで批評祭をやる意味があるんやと思ってる(だから石川さんのひとことについては、おれの勘違いやと思いたい)。 一編の詩に対して、あるいは現代詩全体に対しての捉え方考え方接し方がばらばらな人によるもろもろの文章が集まって、共感しあったり場外乱闘を繰り広げたり、次の作品で応答したり、そんなもみくちゃのなかで、おれが持ってる考え方と相手が持ってる考え方を交換して視線を広げれるのが、批評祭の面白いところやと思ってるんやけどねえ。一つの詩をもってきて、それに対する解釈を披露し合う場に過ぎないんやったら、おれはそんな批評祭にはハナから参加してないです(そんなん文極でやれよ)。あ、別にそういうスタンスがダメっつってるんじゃないですよもちろん。それ以外のがおってもええやんかと。おれみたいな、ぼんやりしたものを、個々の作品じゃなくて全体の感じからまるっと掴もうとするアプローチの人間もおらせてくださいよと。石川さんみたいなスタンスだけじゃなくて、仲さんや虹村さんみたいなスタンスの作品があるから面白いんですよ。ねえ、ちゃけてるかもしれんけど真剣ですよおれは。 ええと前置きが長なりましたね。おれも詩についてとかなにか書こうかなーと。 というかね、もう結構おれ現代詩読んでないんですよ。単純に個人的に忙しくなって、読む余裕がなくなってきたってのもあるけど、なんかこうそこまで魅力を感じなくなってきたんかもしれんねーと思ってる。個々の作品に対しての魅力。現代詩に対してはまだそうでもないと思ってるけどね。最近読んだといえば、カミングス詩集をちらちらと、くらいか。カミングズか。今開いたら「もちろん 神様の次はアメリカ」ってフレーズがあって笑った(なお、今回の文章にカミングズの話はもう出ません)。 現フォはまあ、かなりご無沙汰やねー。まあ前からそうやったけど、おれの求めるような詩はあまり集まってこないんちゃうんかなーここに。ちゃんと見れてないから断言はできんけど、なにかこう食指が動かない。まあ、現代詩のレベルやら動向やら以前に、おれの感性が解放されるだけの余裕が無いだけかもしれんけどね。音楽でも新しいものを積極的に求めなくなってきたりしてるし、他に考えることが減ってきたらまた興味を持ち出すかもしれん。 それはそうと、どうにも作品を読む気が起きないのは、一つには、パターンの少なさがあるんちゃうかな、と思ってます(今考えたのは内緒)。即物的な単語の羅列、どこか遠い記憶を引き出すかの如き物語、日常のそれ、もののみかた披露、チャケてまっせみたいなの(関係ないけど、くれいじー・こすぎさんの「ご飯がご飯が二人前!」っていうフレーズとリズム感が今でも忘れられない)、などなど。 ジャンルというか作風はまあいろいろあるんやけど、そこから引き起こされる感覚がだいたい一緒になってきている。「説明できないんやけどなんか惹かれる」という感覚にも慣れてしまって、わざわざ新しい作品に触れようとする気概がわかない。きっとおれの読み方が、一文字一文字噛み砕くような読み方じゃなくて、全体をざらっと眺める読み方やということが大きく影響してると思うけど、つまり遠目で見ればどの詩も似たように見えてくると。ある意味当たり前なんやけど、それでもまだ違った感覚を求めているわけですね。ある意味邪道であり異端かもしれないけども、新鮮さを無くした現代詩などおれは興味ないです。 で、新鮮さがなくなる原因のひとつは、現フォがベタ打ちの文(と画像か)しか表示できないから、ってのがあるんちゃうかなーと思ってます。これは以前から思ってたことで、前にも書いたのでまあ繰り返して書くことはしません(「パソコンは21世紀の恭次郎を堕胎させるか」)。早い話、現フォは今流行りの3D化にも対応してないし、文字列からはみ出した文字すら表現できんと。だから言葉の意味勝負にしかならん。これではもったいないと言ってるわけです。 そうそう、八柳李花さんの批評祭作品にあった「骨おりダンスっ」Vol.1も読んでみて、全体的にはさらさら流れていってしまったけど、生熊源一さんの「ころしへん」はぴくっときましたね。まさにああいう形のがもっと増えて欲しいんです。PDFの勝利ですね。他にAR詩(セカイカメラによって現実空間上に仮想の詩を貼りつけ、iPhoneで見る詩)っていう試みも始まってるようですが、あれなんかもいい感じです。 ただ、もうそれは現代詩なのか? と言われると正直どうよ。いや別にええねんけど、個人的には全くもってええんやけど、コンクリート・ポエトリーとか別の名前もある以上、それは現代詩と一緒にくくって考えたらアカンのかなーとも思いますね。「現代」詩っていう懐の広さに、無遠慮に乗っかかってる感じはするかな。そういう変形的なのを、紙媒体的な現代詩と一緒くたにして論じようとするから、わけわかんなくなるんですよね。まあ、それはそれで批評祭がもたらす作用ということにしときます。 そういえば、これを書いてる時に、空丸ゆらぎさんの「詩とは「詩的なもの」を書いた文章です。」って一文が目に入ったんやけど、おれは正直この一文の意味がよくわかりませんでした。「詩的なもの」が先にあるんでしょうか? おれはそういうステレオタイプな「詩的なもの」に抗うために詩を書いたり読んだりしていますが、そうして生まれた詩は詩ではないと。まあおそらく、前提がまるで違うんでしょう。こういう、おれにまるでなかった考え方に触れられることが、やはり批評祭の大きな収穫ですね。 【追記】 ここまで読んで「おれ何一つ新しいこと書いてねーな」と思ったので、書こうと思ってたことをもう一つ。 おれは結構意図的に自分の情報を伏せて作品を提示するという姿勢をとってます。書く機会がなかったんじゃなくて、あえて書いてなかったと。それによって、友だちや知り合いがなかなかできないなどデメリットもまあいろいろありますが、それ以上に、作者情報が加わることで作品の読まれ方がある程度固定化されてしまうんじゃないかということを恐れてるわけですね。 これを書いたのが学生なのか社会人なのか、若者なのか年寄りなのか、学生なら受験を控えた高校生、あるいは就活中の大学生、社会人ならノルマに追われた営業マン、それとも納期に追われたプログラマー、いやいや、ひきこもりのガチニートという可能性だってある。どれがおれの姿なのかは、広くは知らせないようなスタンスでやってます(聞かれりゃ応えるかもしれないけど、別に興味ないんちゃうかな)。おれっつってるけど女の子かもしれないわけで。 いらないんですよ、素性とか、詩を読むときには。ネットだから身分を伏せやすいという利点を活かして、あえて匿名性の高い作品をぶちこんでるわけです。文体から作者の姿が予想できたとしても、詩を読むときにそのへんをあまり意識してほしくない。だから一種のユーレイですよ、ネットゴースト。まあそもそも大して作品を発表してない奴の言うことでもないですけどね。 まだ書けたらまだ書きます。批評祭楽しませてもらいますよ。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]【批評祭参加作品】小笠原鳥類×小林銅蟲「ねぎ姉さん」/KETIPA[2011年3月7日23時52分] 知ってる人は知っている、小林銅蟲「ねぎ姉さん」といWeb4コマ漫画がある。恐らく現代詩に親しんでいる人の中では、地味な知名度があるんじゃないかと思っている。というのも、かの小笠原鳥類さんと交流があるようで、鳥類さんのブログにもねぎ姉さんへのリンクが貼られていることを目にした人も少なくないだろう(と勝手に思ってる)。 そういうわけで、いちいち説明するまでもないかもしれないけど、一応知らない人のためにどんな4コマなのか説明しておくと、頭からネギを生やした姉さんと、そのまわりのもろもろの生物と無生物と概念が、知的でカオスな空間でグダグダしたり位相をぶっ飛んだりサイケデリったりシャーったり、はい。はいじゃないが。みたいな4コマです。何言ってんのかわかんないと思うので読んでもらったほうが早いです。はい。 「ねぎ姉さん」 http://negineesan.fc2web.com/ 1話から1000話までをまとめた単行本も発売中。現在1100話を突破してなお増殖中。 といっても、最初によもうと思ってそんなに本数あったら困るわけで、玉石混交といえば混交なわけで、おすすめの話やおすすめの読み方を伝授しましょう。 で、いつ詩の批評すんの、というあなた、もう少々お待ち下さい。ちゃんと詩の批評になりますんで。鳥類さん出してきてるのも伏線なんですから(言うなよ)。 で、えーとおすすめ話数とか、挙げていくわけですが、ねぎ姉さんは前述のとおり小笠原鳥類さんにも親しまれており、気に入った話(?)には、鳥類さんがメールで詩を送っているそうです。というわけで、4コマ漫画と現代詩のコラボがごく自然な形で発生しているわけですね。ちなみに詩の方は別ページ(http://negineesan.fc2web.com/ogasawara.html)にまとまってます。最果さんがやってるような漫画家さんとのコラボレーションのように華々しくはないですが、脳髄からかき乱されて再構築されるような感覚になる2人のワールド。 というわけで、詩が付いているものについてはそれについても批評、詩がなければ漫画のみについて批評。ちがうな、レビュー、再構築、という試み。はい。(話数に*がついているのは鳥類さんの詩あり) はいじゃないが。(これは16話に登場する) 「584話」http://negineesan.fc2web.com/negi584.jpg 作者自ら「どんな漫画家と聞かれたらまず出す」というこの話。皮肉が効いてて起承転結がしっかりしている珍しい作品。これを標準と思ってはいけません。バッチリ弱らせている人類なんてすくってもねえ。 「108話」http://negineesan.fc2web.com/negi108.jpg バンドマンと胎盤する話(こういう語呂合わせは銅蟲さん本当にうまい)。 「みなさんどうぞ 死はありえない 死はありえない!!」 たっぷりの感謝を混沌にこめて、テレーン。魚に律儀な料理人兼バンドマン。元気でいられるのは健康で元気だからというトートロジーがリフレインする。詩はありえない!! はいじゃないが。 「857話*」http://negineesan.fc2web.com/negi857.jpg インテリ姉さん、ザザザザザーと樹木のような言葉を紡ぎ、ふと思い出した高柳重信の句をつぶやいてひとり。「ふねやきすてし せんちょうは およぐかな」。その果てに浮かぶ焼けた船のような犬のような。黒姉さんが、死んだ弟のようにたたずんで、どこか悲しげに顔を崩す姉さん。 船焼き捨てし船長は泳ぐかな、と、高柳重信の俳句が出て来て、ああ、この俳句があった本『蕗子』は「東京太陽系社」の本だったのだな。水星。その後、高柳さんは『山川蝉夫句集』があって、高柳さんですが山川さんで、六つで死んでいまも押入で泣く弟、と書いていました。押入れにはテレビがあるので、ザザザザザーと泣く線 鳥類さんには即座にばれていました。ちなみに作者はねぎ姉さん単行本化したときに、「高橋重信」と誤植しています。普通の国会議員みたいなことになってしまった。 「420話」http://negineesan.fc2web.com/negi420.jpg 崩壊間際。崩壊する間際の作り笑い。冬の北海道のように冷たい言葉は、姉さんを破傷風にする。悟りを開いたような笑顔で、傷口を見えないように塞ぐ。 「何もできないのなら 笑うしかあるまい」 そうして切断される姉さん。わからん。 「1049話*」http://negineesan.fc2web.com/negi1049.jpg あらゆるものを死人に見立てて、死人になることが流行する世界。行間をたっぷりとって感傷的な文字を連ねるだけで、安直に詩人を名乗れることへの皮肉のようでもある。そんな擬死人はボラの卵巣のごとき形態をしているが、姉さんいわく「からすみじゃないよ」。では何であるのか。 カラスミではないものは、シシャモでした。深海の油が多いサメの腹から出てきたコッテリした塊でした。塊がダンスして短い手足を動かして動きます。短い手足が多いし、骨の形が単純だ。「うじのワイドショー」では料理の後にジャラジャラジャンジャンとソロバンを扱う人がいて、多くのゲジゲジが木でできているように乾いていた。ゲジゲジは、足です。ゲジゲジもちょっとの工夫でこのラジオ(速度)」 カラスミみたいな高級品じゃない。スーパーのパック詰めで売られるシシャモなのだという。実際には、本物のシシャモは貴重で、他の魚をシシャモと称して売っているそうであるが、つまるところそういう偽シシャモなのであって、「短い手足が多いし、骨の形が単純」な、サメのはらわたのような擬詩人。ウィキペディアを信じちゃったりして、みんなすなおなよい子。 さあ、そんなシシャモたちでも、まあ食えるだろうと姉さんと黒姉さん、背骨のファスナーを楽しげに開陳。うじーサファリパークにもいない、グチばかりで行動も起こさないうじ虫と、木製の乾いたゲジゲジがみっしり詰まっているのであった。バラエティの力と、ソロバン勘定でなんとか食えたもんにはなれど、4コマ目で姉さん陳謝、そこからも味は推して知るべし。でも食い物として扱わないなら、ラジオになったり扱いようはある。蓼食う虫も好き好きと言ったら怒られたことを思い出しました。せめて十人十色とか言えだって。 「1085話*」http://negineesan.fc2web.com/negi1085.jpg ボケの始まったねぎ姉さん、人間だから忘れることだって有ります。カレーを食うのは掃除機のルンバ。でも人間です。そう、なんでももとは、脳のある人間だったのです。ミミミもオケもアメンメも、キノコも脳も姉さんも、みんなみんな人間なのです。 今日は知らないキノコを食べましたが、店で食べたので、食べられるキノコだったと思います。こどもの頃はキノコの図鑑を読み続けていました。脳のようなキノコが多くて、脳の図鑑なのではないか歌って 人間なので脳があります。ということは、あらゆる図鑑には脳が描かれている、脳図鑑でない図鑑はないのです。ちなみに人間の脳は首もとにあります。はい。 キリなさそうなので、いくつかだけやっつけで。とりあえずいろいろ読んでみることをおすすめします。同作者の「闇鍋ブロードウェイ」なども良いです(おすすめはファーストの「こわっぱのはなし」など)。こっちにも鳥類さん、律儀に詩をつけてます。詩を付けてるやつから読むもよし、まるでランダムに読むもよし。4コマ漫画が現代詩に近づく瞬間をまのあたりにできます。 意味を否定してもそこに意味が見出される、そして無意味という意味が組み合わさって、はじめの意図や衝動とは全く違った解釈が、はるか砂漠の果てからでも生まれてくる。 現代詩とか作品とかって、そうやって成長すればいいんじゃないですかね。本物も、解釈可能性も、優劣も必要ない。のーみそこねこね((C)コンパイル)しながら、偶然と必然をぐっちゃぐちゃに煮つけて4コマにでも8コマにでも4000コマにでもしてしまえる。4コマ漫画がここまで自由なのに、コマの制約すらない現代詩が不自由でどうする。 ---------------------------- [自由詩]回転軸/KETIPA[2011年7月3日21時37分] チキンナゲットのある砂漠 生命が群がる 死に死に死 死に ぷちぷちと砂がなるので 精密機械の昆虫たちが油を求めて追い求めていて 鶏肉 あるのでむさぼるのである 虚にポンとおかれた 肉? 繊維だったファイバーだった クモの針のごとく細く 地面をぬってはう 砂粒の中に潜り込んで地下に巣を張る 網網網網 網編み ここで 放射放射放射放射 立体クモの巣が地中の生物をくまなく洗いだし 肉の繊維ほどけて糸とな 糸に絡めとられる十二文字の昆虫 虫虫虫虫 虫虫 温度の上昇 サア砂漠たちが回転するよ 計算式を無視した速度で拡大する同心円の網がアミガ アミガカラダニカラミツイタヨ 放射する光線に刺されて二次元・一次元に還元される面と立体 立体立体が線と点 線と点が点点点に収束 回転軸にま巻き取られる糸 回転収束回転回転収縮糸糸糸糸糸糸 糸糸回転網網編み網収束収束収束収束 回転糸糸収束回転糸糸回転収縮糸糸 収束収束糸糸回転収束網網編み網収束 点 いまここに更にチキンナゲットが ---------------------------- [自由詩]炭つムジーク/KETIPA[2011年8月13日0時00分] リズムがどこにもみじんもなかった ぼくはじゃない ぼくはがいらない 切れ込みを入れて言葉をきり捨て 紙の繊維が仮根になるまで 叩き千切り包丁で かこんかこんか 淡々たん ぼくはがなければ名文であった もぎ取る ぼくは ぼくはぼくはぼく ぼくぼくぼくは 折り積み重ねられるぼくぼくは 切断したバッタの頭を思い だしたりするのは   もぎとったから ぼくはの焚書 かこんぱちぱちぱ 灰がどこにも行かなかったので たまらずムサボリ食うぼくはぼくは 胃の中で弾けるウルトラぼくは 胃酸がとびちり大爆破!! パンパンパチパチかこんかこんか かかんカカカんかかん 4つ打ちドラムを炊き込みご飯に 混ぜ込みながらのスクワット 胃袋はじけて 音がふくらみ 新作テクノができました ぼんぼんぼくぼくぼんぼくぼくぼん パンパシパンパンかこんかこんか かかんかかんか、果敢か感化 パチパチかんか 僕僕かんか かかんかカカかんかかんかカカんか タタタタタタ炭 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]自分のためだけの、非常に個人的な理由による詩批評/KETIPA[2011年8月14日2時03分] しばらく見ない間に詩のレビューやらが減ってる気がしますが気のせいかな。 たぶん他所でやってるんだろうと思うことにしよう。 まあそれはそれとして、なんか急に現代詩読んでみようかねーという脈絡の無い感情がふっと湧いたので、消える前になんか書いておく。 なぜ読むか、そしてわざわざ批評するか、今回は別に誰かに詩の良さを伝えたいからでも批評欲を満たしたいからでもなく、単におれが詩をどう批評するかによって、自分が詩をどう読んでいるかを確認するため。 本当にそれだけの理由しか無い。だから下の批評(レビューかも)は完全に個人的な覚書みたいなもんなので、別におれの思考回路とかに興味ないなら読まなくてもいいです。 どれ読むかはランダム表示で決めた。 霜天「染色」 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=188610 非常に端正な詩ですね、A4用紙みたいです。 見た目の印象を侮ってはいけません、視覚的、図形的な要素は詩全体の印象を決定してしまいます。あと文字の密度。平仮名と漢字が半々くらいで、間抜けでも硬質でもない、優等生のにおいがします。 すっかりと丸くなった母の背中を押し込んで いく、とバネのように弾んで台所へと消えて しまった。庭の隅で父は、苗木のままの紫陽 花を随分と長い時間見つめている。 リズムが悪いです。あまり音読向きではないですね。2文目など非常にわかりやすい出だしですが、そのせいで急にふっと安直な世界に引き戻されて少し残念。                 時計の針 はここ数日で速くなった、寂しさの単位を少 しずつ切り替えながら、前、に進もうとして いる。 ここはあまりよくわかりません。魅力が。もったいぶってどや顔をされているような感覚。「、前、」が何の効果ももたらしてないような気がしてしょうがないです。    染められるだけだった私たちの庭は、 いつからか草原の一部のようになり、塗り分 ける絵筆の先端の痛みばかりを気にしていて は、もう追いつけない、私の位置だ。草原に 丸くなった猫の背中を探して、私たちは遠い ところまで来てしまった。いなくなる人たち を数えるのはやめて、繋がれる人たちにリボ ンをつけ始めたのはいつ頃だろうか。 読み進めて行って主題が浮かび上がってくると、それがあくまで私からの半径何メートルかの中なのだろうか、いやそこから飛ぼうとはしている、けどやはり飛び切れていない。世界観が想定内のところにとどまってしまっているように感じられるのがやはり残念。ひねてみようとしてるのもわかってしまって、ひねきれてない。 頭の中なのですやはり。自己完結している。それがおしい。「草原に丸くなった猫の背中を探して、私たちは遠いところまで来てしまった。」この辺が音的にもなかなか美しい。ただ次の「いなくなる・・・」はあまりいただけない。ドヤ感が。                  遠くで 私を呼ぶ声がする、御飯がどうのと言ってい る。夕暮れる町を抜けて、あの庭を掻き分け ると、昨日染めたばかりの布が、千切れて飛 んでいくのが見えた。誰を縛ろうとしていた のか、固まった左手を見ても、思い浮かばな い。寂しさの単位が、切り替わる音がした。 失速したと思います。残念です。言葉が迫ってこない。(目指す所が違うでしょうので当たり前かもしれませんが)音列の持つ力が生かされずに、情景の説明となっているので、これでは小説を読むように咀嚼するしか無い。最終文でせっかく音を題材に扱っているなら、「寂しさの単位が、切り替わる音」を、そのまま説明せずに文字の隙間からしみ出させて欲しい。表現したかった世界観を表すのに必要十分な文字しかないので、「えっ?」という感覚が起きない。説明しきれない非常に直感的な、電気信号のような刺激が生じていない。 だから全体として非常に基本的で、枠を外そうとするその方法も平均的な、優等生的な詩と感じます。とりあえず音の感覚がどうもおれと違う方のようですので(というかたぶんそこまで音に重点をおいてない)、まあ当然といえば当然の感想です。 もちろん霜天さんのこの詩を、おれ以外の他の人が読めば、違うところに注目するはずだと思うので、全然違った評価になると思います。あくまでおれの重視することに則って解釈したまでですので、別に霜天さんのこの詩の出来がどうとか、そんなことを言いたかったわけではみじんもないです。いや正直、ランダムで選んだ割にはいいのが出てきたと思ってますよ。投げ出したくなるようなのがでなくてよかった。 とりあえずこの詩の批評を書いてみて気づいた点 ・おれは音の流れ、断絶姓、リズム感を非常に重視する。 ・図形的な、視覚的効果も直感的なものとして重視している。 ・おれはそれぞれの表現されたものについて、またそれらのものがたりのつながりについて、関心をさほど持っていない。 ・そもそも一文読んだあとに次の文を読むと、もう前の文のことをほぼ忘れている。 ・想像できる風景にはあまり興味がない。 ・文字の間から染み出してくる何とも言えない説明しきれないもやもやとしたものに触れたい。 ・そのもやもやとしたものは音もしくは文字の間、あるいはその全体から出てくる。 ・主題が私の周りのものだと読むのをやめそうになる。 ・そもそも気を付けないとばんばん言葉を読み捨てている。 ・全体の雰囲気を捉えるのが極めて苦手。 ・部分的な言葉の羅列から高揚できればそれでいいと思っている節がある。 ・タイトルと本文の関係性にはそれほど注意を払っていない。 まあ大体こんなもんですか。薄々わかってたこともありますね。 最後に、こんなおれの個人的な思考回路あぶり出しのためだけに詩を切り刻んでしまったことを、作者の霜天さんにお詫び致します。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]音楽のジャンル分けは正直良くわからない/KETIPA[2011年9月18日22時05分] 音楽にジャンルがほんとうに必要なのかということについては、個人的に割と前から疑問を持っている。音楽のジャンルを考える機会というと、CDから取り込んだ音楽ファイルのジャンル分けをなんにしようか考える時くらいのもんで、それとて音楽ファイルの数が多すぎるから便宜的に分類する必要があるということで、そうしているだけである。 そのためおれのプレイリストで「Rock」ジャンルに分類されてるアーティストを見ると、極めて適当である。そもそも洋楽を聴く量が比較的少ないため、ビーチボーイズとかクイーンがいると思えば、ナンバーガールやや椎名林檎みたいなベタのもいるし、残響レコード系のインストロックもあるし、いわゆるポストロックと言われるのもいるし、アポカリプティカみたいな北欧メタル類もあるし、便宜的にJ-ROCK、パンク、ノイズミュージック、ヴィジュアル系とか言われるものも叩きこまれている。ちなみにビートルズやオアシスは「Pop」に叩きこまれている。はっぴいえんどは「Folk」だし、細野晴臣は「Jpop」てな具合だ。そんなんだから当然それらのジャンルに突っ込まれてるのも混迷を極めている。あと「Alternative」は基本的に違うのに振り分けている。ジャンルの事でこだわりを持つリスナーからはフルボッコであろう。つまりおれにとって、ジャンルはその程度の価値しか無い。何を聴くかはともかく、何のジャンルを聴くかは特に細かいこだわりを持たない。 無論ロックンロールの成り立ちとかどのバンドがどういうジャンルとされてるかとか、ジャンルの発生や派生にもとんと関心がないので、当然順を追って知っているわけもない。そういう話を聞くのは嫌いじゃないので、ここんとこ散文で散見された「ロックがどうの」みたいなのは「へーそうなんか」と思ったりして、まあ勉強にはなりましたが、それだからといって音楽ファイルのジャンルをきっちり修正しようとかは思わなかった。数万曲あるといちいち修正してられない。そんな暇あったら別の音楽を探してるほうがましだ。 でもなぜ、音楽についてはそういうジャンルの話が発生するのだろうか。ここに投稿されてる各種詩作品についてはひとくるめで「現代詩」にするくせに、あるジャンルのサブジャンルのサブジャンルみたいな細分化がされるのかいまいち理解出来ない。大きな理由は、その曲を売る都合上、ジャンルに分けとくと便利だからとか、後の人たちが「このアーティストは他と違う」と分類したいから別のジャンルに分類するとか、そのくらいのもんなんじゃないかと思う。だから一度ロックとかそういうジャンルが発生したら(それも別に当人たちが発生させたというよりは、周りの人が後々つけたんじゃないかと思うけど)、「ロック」として売り出したい曲をロックと称して売ったりもしてるだろうし、工業製品じゃないんだから「この条件を満たしてればロックです」なんてありえないんじゃないのか。そういう不確実なものをつかまえて「ロックだ」「ロックじゃない」と言われても、まったくもってピンと来ない。広義のロックかどうか、という話であったとしても、なんとでも恣意的に分類できる以上、あまり意義を感じない。おれ個人としては「日本語ロック」は「ロック」が起源だとしても全く別のものだと思うし、ジャンル分けを徹底的にやるなら、今の細分化されたジャンルでもまだまだおおまかすぎるだろう。 たしかにジャンル分けは便利だ。ポストロックみたいな曖昧極まりないジャンルであっても、「なんとなくこういう感じの曲だろう」と推測できるので、好みに近い音楽が探しやすい。現フォでもそうした細かめのジャンル分けをしたらいいんじゃないかとは何度か言ってきたけど、そうならないのがなぜか、今回のロックを考えているうちに気づいた。音楽のように、大勢の評論家が名前を与えてくれないからだ。 何も職業評論家の話だけではない。現代詩フォーラム評論家なんてのは聞かないし、ましてや現代詩のジャンルを細分して提示するなんて人を見かけたこともない。仮にそういう人がいたとしても、よほど深い考察に基づいた分類でなければ、一顧だにされないだろう。そして参加者の殆どが素人である現フォにおいて、熱意、関心を持って分類に取り組もうとする人が現れないのは、何一つ不思議ではない。そんな七面倒くさく実にならない作業をしようとする人はそういないだろう。 ここのところのロックがどうのっていう散文に違和感を覚えたので、なにか違う視点で書けないかと思って書き始めたものの、きわめて普通の意見にまとまってしまった。なぜ違和感を覚えたかについては、あまり明確な回答を思いつけずじまいだ。単純に興味がなかっただけなのかも知れない。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]現代詩で鼻をかむ話/KETIPA[2011年12月7日23時34分] やっぱり現代詩は文章だから、ちゃんと文脈を読んで理解出来るものでないといかんのだろうか。 とこないだ、ひさびさに現代詩手帖を読んで思った。 いつの間にか新人作品の選評が長々と数ページに続くようになったんですね。おれが見た号だけ特別やったのかな。なんにしても、普段は選者一人に一ページのものが、対談でだらだらと「この人のはこういう印象で良い」「よく理解できなかった」など、選者がどこをどう見ているかがある程度わかるように。 こういう選評自体は見るの好きなんですが、やっぱり「入選する詩」は、傾向としては文章が理解できるものでないといけないようで。文脈がむちゃくちゃだとダメだということでしょうね。入選作を見たところ、そこまで極端に偏ったという印象もなかったけど、傾向と言うか雰囲気は似たものが集まりやすいイメージ。まあ当たり前ですがね。 それはそうと、こういう選評読んでると、自分がいかに人の詩を適当にしか読んでないかってことがよくわかってしまう。「思いがけない言葉のつらなり」とか「脊髄をぴりぴりさせて、冷や汗をかかせるような詩」とか、大分お茶を濁してきた。「わからんくせにギャースカ言うな」と言われても仕方が無いところだろう。 いわばおれは、人が文脈に心を砕いて書き上がった現代詩をみて、それで鼻をかんで「この現代詩かみごこち良くないな」とか言ってるようなもんで、そりゃ文句が出ても無理はない。褒めてても「この絹のようなかみごこち! 全然鼻が痛くならない!」なんて言われても、あんまり嬉しくないでしょうねえ。 やっぱりおれは現代詩に向いた人間ではなかったのかも知れない。最近の最果さんの作品にも面白みが感じられなくなってきたし、勘違いだったのでしょうかねえ。 あ、ちょっと前に買った藤原安紀子さんの作品集は良かったですよ。実にゾクッとします。かみごこちの問題でしょうか。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]【HHM非参加作品】それでも現代詩の発展に期待する/KETIPA[2013年1月7日22時55分] ごぶさたです。KETIPAです。 インターネットでは発信しない人間は死んだとみなされるので、もはや詩人でも何でもない死人であったわけですが、新しい年になったのでちょっとだけ生き返ります。 なぜ生き返ったかと言われてもあれですが、HHM(批評祭)なるものが開催されると小耳に挟んだり、その主催者様に随分昔の拙文を掘り起こされたりしたからという、それくらいの理由です。なんだかんだ言ってお祭りが好きなんだと思います。あと現代詩にまだ関心が残っていたということです。 こういう文章を書くたびに、枕詞に「現代詩を読まなくなって久しいけど」とか書くおれですが、それでも今現代詩がどうなってるか、これからどうなっていくのかがなんとなく気になってしまう。なぜ気になるかというと、現代詩の発展する可能性が潜在的に高い(と思う)割に、誰もそれを盛り立てられずにマイナージャンルに甘んじているからだと思う。早い話未成熟なジャンルだからです。すでに成熟したジャンルのごく一部で小さくまとまるより、まだ成熟しきっていないジャンルを拡げていくほうが面白いと思うんですね。 おれは何事にもあまりに表層的すぎ、刹那的すぎるため、現代詩の書き手としても読み手としても批評家としても中途半端な存在なので、第一線で活躍する意欲的なみなさんの輪に入れないような有象無象なわけですが、その分ジャンルとしての現代詩を遠巻きで眺める傍観者として、外からはどう見えてるかをたまーに発信できればと思っている次第です。外野は黙ってろと言われれば沈黙する死人に戻るわけですが、言われなくてもきっと忘却されて死人になるので同じ事です。ので勝手に外野でウダウダ言わせてもらいます。 さて最近、おれがちょっとだけ現代詩に希望を持ったことがあった。最果タヒ「空が分裂する」です。もはや説明もいらないかもしれないし、今更かよと言われるかも知れないけど、別冊少年マガジンに連載されたイラスト詩集です。第一線で活躍する漫画家によるイラストがついた現代詩ということで、最初聞いたときは、本当にその漫画家さんが描いてるのか、本当に連載されてるのか、と半信半疑もいいところだったけど、どうやらマジらしいということで、なんだ、現代詩捨てたもんじゃねえなと思ったもんです。 その「空が分裂する」への反応をこまめにウォッチしているわけじゃないので、それが果たして新しい読者、作り手を現代詩に呼び込めたのかどうかはわからない。しかしこれまでと全く異なる読者層へ、こういう形で露出することができたというそのこと自体が意味の有ることだと思う。化学反応はどこでどう発生するかわからないけど、物質がない所で反応は起きない。まさに火のないところに煙は立たぬということで、現代詩がちょっとだけ発火して、遠いところにまで煙が見えた瞬間だったんじゃないかと思っております(ちなみに「空が分裂する」のあとがきは個人的に傑作だったので、このあとがきを読めただけでも買った甲斐があった)。 思えば広告もマーケティングも、いわば火おこしみたいなもんだと思う。テレビや雑誌や新聞やネット記事やらで、発火させてあちこちに飛び火させ、話題や関心の炎を拡げていく。音楽であれば、それこそ音楽番組、ドラマや映画の使用曲、有線放送、音楽雑誌、音楽サイト、YouTube、ニコニコ動画など、数限りなく媒体があるわけです。さらに個人のブログやツイッターもミニ媒体となり、勝手に音楽が燃え広がっていく。音楽業界が危機的とは言われながらも、一度完成したこの延焼システムは、音楽に関心を持つ人が一定数いる限り途絶えない。最近あまり目立った動きがないけど、音楽配信サイトやポータル的な新たな媒体も、そこから自然に発生していく。ひるがえって現代詩はどうか。書き手や読み手の母数の問題もあるし、あまりどうこう言っても仕方がないけど、発火も目立たないし、なにより延焼していない。 だからHHMみたいに、発火を促すイベントがあると、どんな化学反応が起きるのかつい気になってしまう。今回は純粋に作品に対しての批評を募るということで、現代詩そのものへのツッコミがメインのおれは参加要件を満たしとらんわけですが、逆に「なんでもあり」じゃないだけに、面白くなるんじゃないかと思っとります。 また、活字で書かれた詩だけでなく、あらゆる作品を「批評」の対象として歓迎します。 小説にも、音楽にも、絵画にも、彫刻にも、映画にも、建築にも、 マンガのコマ割りにも、Youtubeで見たアニメの演出にも、 コントや漫才といったお笑いの作り出す“間”にも、ニコ動のネットアイドルのスカートの襞や足の小指にも、 「詩」が隠れていることをわたしたちは知っています。 (香瀬「HHM要項」(http://hihyosai.blog55.fc2.com/blog-entry-202.html)より) これまでの、作品論でも現代詩論でもなんでもござれというようなスタンスを脱し、しかも「現代詩への批評」という枠を超えた試みっぽいので、ちょうどいい制約がある分、参加しやすいかもしれんのです。以前カテゴリをもうちょい絞って探せるようにしようぜということを書いたわけですが、あまりに何でもありの文章群があっても、その中から自分の関心があるものを抽出するのが大変なので、今回のHHMで「作品論」に限定するのは良いんじゃないかと思っとります。それもまた「何のジャンルに対する作品論か」で区別できると、あとあと読む人が助かりそうですね。 しかし果たしてこのHHMが盛り上がるのか? 現代詩の復興に貢献するのか? というところははっきり言って未知数だけど、祭りにはそもそも成功や失敗がないんじゃないかと思うわけです。ただその祭りが開催されること、継続されること、いつまでも「現代詩はクソだ」「停滞している」と言われ続けることが大事なんじゃないかと。 八田一洋氏は、「そもそも歴史なんてあるのか」(http://www50.atwiki.jp/netpoemhistory/pages/15.html)において「ネット詩には歴史がない」とすら断言する。そしてそれは、ある種のコンセンサスとして成立してるように思える。ヴァーティカルでない場所。反復横跳びばかりで日が暮れる街。 ネットとはいつでもそういう場なのかもしれない。 右肩氏の言説はなにかを残せたのだろうか?相田九龍氏の一連のムーブメントは、ひとびとになにかを継承していくことができたのか?未詳24の更新が途切れた。poeniqueが活動休止している。現代詩フォーラム、文学極道、あなパイも、いつか、そして、まだ始まってすらいないHHMも、いつか、ひとつ、ひとつと重たいドアが閉ざされていく。ぜんぶいつかは無くなってしまう。それからは逃れられないのだ。だけど、だからこそ。 (コーリャ「しもつき七さんがオバさんになっても(HHM開催にあたって)」(http://hihyosai.blog55.fc2.com/blog-entry-203.html)より) J-POPも80年代、90年代という黄金期を経験したあと、今となっては衰退産業と言われるまでになっているけど、往年の名曲をカバーして掘り起こすだの、AKB商法でしたたかに成長するだの、使い古された手法を何度も繰り返したりして、しぶとく反復横跳びを続けている。そうやって動き続けている間は、炎が途切れずに済む。誰もJ-POPに言及しなくなり、忘却された時こそ、J-POPが死んで化石になる時だ。 人間は 祭りがないと生きていけないけど 祭りだけでも生きていけない (小林銅蟲「まんが道なき道 6話」(http://negineesan.com/archives/michi/michi_06)より) この祭が終わったら、また平穏に朽ちていく現代詩の日々が待っているのかもしれない。しかしその日々にも、次の祭で掘り起こされる作品が静かに溜まっていくのであれば、現代詩にもまだ希望はあるだろう。 HHMの参加者として火をおこすことはできないかもしれないけど、廃墟や遺跡の中で朽ちつつある多くの作品が、この祭で発掘、再発見され、ジャンルとしての現代詩の潜在的な可能性が呼び起こされることを、陰ながら期待しております。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]【HHM2参加作品】すべてはネット詩に回収され、しかしここはまだ砂漠だ/KETIPA[2014年3月17日22時04分] 「わたしはこう思う。詩にネットも活字も媒体の違いだけで、本質的な差はないと。」 (光冨郁埜『(5)ネットと活字媒体、詩の状況は刻々と変化していく。』http://mitsutomi.web.fc2.com/nethyou.html) そんなわけねーだろが、 と思ったりしたので、 書く。 KETIPAです。 はじめに書いておくと、 おれはネット詩という呼び名はあまり好きではないし、 紙媒体で発表された作品が電子化されたらネット詩とどう区別するんや、 とか、 その逆もまた思うのです。 おれは「詩」をかなり広義にとるほうなので、 詩情らしきものが想起されれば、 言葉でなくても、 文字でなくても、 極端に言えばミスプリントによって生 まれた文字化けだって、 詩に見えれば詩だと思っています。 話は逸れるけど、 この間自然発生した文字化けプリントをたまたま見つけ、そ れが詩そのものだったので、 集めて持って帰ってきました。 ちなみに以下です。 採集詩I http://showryu.web.fc2.com/files/Saishu_shi_I.pdf 採集詩II http://showryu.web.fc2.com/files/Saishu_shi_II.pdf なおこれらの作品は、 持って帰ってきた紙をコピーしてトリミングして並べただけで、 一切手を加えていません。 つまりおれは作者ではなくただの編者で、 偶然の産物です。 もはや引用が引用でなくなるような 「!」(採集詩I) の強度や、 「ヘハヘハ」(採集詩II) の病的なリフレイン、 そして何よりネット詩に真似できない文字の重なりや配置まで、 これをどこかのコンピュータが出力したというのですから、 偶然のほうがよほど詩人だと思い知った次第です。 いつぞや「現代詩とマルコフ連鎖モンテカルロ法」(http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=205590&from=listdoc.php%3Fstart%3D0%26hid%3D6252) という 意味不明な散文を投稿したことがありますが、 プログラムが書いた、 詩のその先を行っている 「偶然詩」とでもいうべきものは、 詩に回収されていないだけで、 無数に生まれているのでしょう。 ずいぶん脇道にそれたけど、 こういうかなり辺縁部の詩、 少しでも詩の定義を狭めれば詩ではなくなる詩は、 ネット詩では生 まれない類のものと思っている。 これまでもおれの関心にあった現代詩の中には、 ネット詩的な手法では出てこない作品 ――たとえば新国誠一の象形詩だったり、 萩原恭次郎『死刑宣告』だったり、 藤原安紀子『フォ ト ン』だったり、 多様な感動をもたらすものが含まれている。 だれ? つうろ (藤原安紀子『フォ ト ン』) ためしに引用してみたものの、 この引用に何の意味もないことは言うまでもない。 この『フォ ト ン』28ページには、 ページ番号とこの6文字しか印字されていない。 それでいてこの詩情。 引用では死んでしまうこの詩情。 言葉の飛躍の面白さとかリズム感とか、 そんな次元をはるかに超えた、 異質なもの同士が決して混ざり合わずに、 しかも一つの空間に存在しているという快楽が得られる詩。 たっぷりの空白がある紙の上に、 ぽつりとのせられていなければ、 このことばたちは、 ここまでおれの心を揺さぶらなかっただろう。 ちなみにこの本では 「だれ?」 と 「つうろ」 は、 微妙にフォントが違う。 ネット詩でそういうきめ細かい創作ができないとは言わないけど、 ネットで詩を消費していると、 そういう発想や配慮はどんどん削がれていくように感じられる。 何を書くか、 言葉でどう表現するかに心を砕きすぎて、 表現効果を最大限発揮させるための見せ方へのこだわりは、 薄くなってしまうだろう。 組版的な制約によって表現の多様性が失われることは、 以前「パソコンは21世紀の恭次郎を堕胎させるか」(http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=203741&filter=usr&from=listdoc.php%3Fstart%3D0%26hid%3D6252) で書いたので繰り返さないけど、 ネット詩を考えるうえで、 キーボードや平たい液晶から言葉を紡ぐことの不自由さは意識しなければならない。 その不自由さがまた、 今のネット詩をネット詩たらしめている一つの要因であると考えている(後述)。 では逆に ネット詩にしか表現できないものはあるのか ? という話だけど、 結論をいうと何でも表現できると思う。 ただし、 今はまだ詩人がネットに使われていて、 表現の幅が広がっていないように見える。 ネット詩の作風の傾向、それは「ポップソング的構成」で、「詩的言語の乱用(またはセンスのない使い方)」だ。このネット詩特有のスタイルは、作品を書いたときに、前記の条件を満たしていれば、同じスタイルを是認するいわゆるネット詩人に評価される、という構造になっている。つまり、ネット詩の作品の限界は、ここにあり、同時に、このネット詩界隈でのみ評価される既存のスタイルを乗り越えなければ、ネット詩が紙媒体詩の作品に匹敵する可能性にはつながらないのだ。 (ネット詩の耐えられない軽さ/八柳李花 http://hihyosai.blog55.fc2.com/blog-entry-84.html) この前半はあくまで「現在の」ネット詩の傾向であって、 本来ネット詩はもっと自由であっていい と思うのだけど、 何でもしていいといわれると何もできなくなるのか、 不自由な縛りを暗黙のうちに採用しているかのように、 紋切り型のポップミュージックの再生産を、 いつまでもいつまでもいつまでも続けている。 心の平穏が乱されない平坦な画面の 易しい詩的言語に、 四畳半のくたびれた現実を投影してなぐさんでいる、 そんなようにしか見えてこないのです、 大部分は。 それはネットプリントを採用しようが、 PDFを駆使しようが、 紙媒体に出ていこうが、 詩人がそれに意識的でなければ、 すぐさま四畳半に引き戻される。 ピアノ線は細く空を掻いて きっと、見失うために、夏をえらんだ 触れてはいけないと 触れてから知る 切れるでもなくただふるえたのは呼吸 さいごの まちがえても、息をととのえれば こわした場所から夕景は始まってゆく 「いつでもいちばん新しい風に居る、きみは」 (黒崎立体「愛」http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=274426&filter=usr&from=listdoc.php%3Fstart%3D0%26hid%3D10087) ここはよく傷む 果実ほどの自然で やわらかく、落とせばすぐにはじけるだろう (ピアノは死のまねっこだよ スカーレットは恋のなまえ) でたらめだけを言って、いもうとのように悲しまれたい (黒崎立体「死にたくないけれど悲しまれたい」『終わりのはじまりVol.5』より) ネット詩というのは本来とても恐ろしいものだとおれは思っていて、 インターネットなる無限増殖回路にひとたび組み込まれれば、 すべての、 ありとあらゆる鑑賞可能な対象を、 「ネット詩」に変質させてしまうことができる。 ネットプリントで発表された 黒崎立体「死にたくないけれど悲しまれたい」を ここに引用したことで、 合わせて引用した「愛」とともに、 この詩の一部はネット詩に回収されたことになる。 とおれは思っている。 あるいはネット詩人であった作者の、 ネットから少しはみ出した作品が、 また画面に引きずりおろされて同列に並べられる、 こんなおそろしいことがあろうか。 モチーフも表現も、 そこに描かれた、 手触りのいい身近な詩的言語を、 ほんの少しだけ切断して、 さくっと切られた断面にぴりっとするような詩情を感じ取らせ、 四畳半の読み手の心を風のように撫ぜて、 余韻が消えていく。 その黒崎作品の繊細な手触りは、 現代詩フォーラムとネットプリント誌では、 ほんのわずかに差があった。 いうなれば、 一枚の葉と、 一枚の葉が精密に印刷された一枚の紙ほどの、 原材料は同じなのに違うものという、 違和感が確かにそこにはあったのだけれど、 せっかく差異化ができたというのに、 一枚の葉をスキャンしてネット詩にすると、 とても似たような手触りになってしまう。 それが、 惜しい。 それに抵抗するか、 逆にそれを利用するか、 ツールとしての可能性を極限まで使い倒すような、 そんな挑戦者が出てこないと、 ネット詩の多様性や進化は一向に進まない。 紙媒体では何十年もかけて考えられる限りの実験が試みられてきたからこそ、 言語芸術として一ジャンルを築けたのだろう。 ではネット詩だって、 あらゆるものを回収・同化し 平坦な白画面に同列に並べることができるその地平で、 そこでないと強度をもたない言葉・記号・その他を、 突き詰めていけば、 ポップソングではない旋律が聞こえてくるはずなのに。 ジャパニー ズ ロック ミュー ジック の アルバム に ありがち な シーク レット トラック 手前 の 6 分 強 に わたる (無音部) にも 似た 沈 黙 が不快 だから そんなランプで僕を見ないで みないでよ (竹村砂漠「アンドロイド」より URL消滅) 2009年ごろ現代詩フォーラムで活動し、すでに存在が抹消された竹村砂漠氏。 だけど誰かが、 (たとえばおれが) ネット詩に回収すれば、 かの詩人は死ぬことも沈黙することも許されない。 いつの間にか0と1の砂漠のはざまに消滅するのも、 ネット詩の特徴だけども、 おれはそれにも抵抗して、 ほんのわずかな不協和音を鳴らす。 おれは、 砂漠を、 見るぞ。 ---------------------------- (ファイルの終わり)