久遠薫子 2007年9月2日21時08分から2007年12月6日6時47分まで ---------------------------- [自由詩]金魚鉢/久遠薫子[2007年9月2日21時08分] わたしの金魚鉢には ガラスのおはじきが入っているだけ 靴箱の上でうっすらとほこりを被る きれいに洗ってよく拭いて チリンチリンと入れなおし 明かりを消した窓辺に置いた 晩夏の夜気と通りの街灯は 微かな秋の水分を含み けれども おはじきが浸るにはほど遠い それでは わたしの涙でひとつ 両手で抱えた金魚鉢には 一滴の雫も落ちない 干しっぱなしの洗濯物をかきわけて 金魚鉢を冷えた空気にかざす ヤカンがけたたましく呼んでいる だから待ってよ ひたひたにしたいのよ 腕が疲れるまで 底無しの夜空を映し込む やがて満ち満ちた金魚鉢 表面張力で持ちこたえる水面に 残りのおはじきを ひとつ、ひとつ、ひとつ、 ついに何個目かで水は溢れ 涙一滴で また溢れ出す 手を入れておはじきを全部取り出した 無数の境界線が踏み敷かれて滲む頃 金魚のいない金魚鉢は また 靴箱の上でうっすらとほこりを被る もうおはじきさえ 入っていない ---------------------------- [自由詩]今宵ぼくらは/久遠薫子[2007年9月2日22時58分] 灯りのともったキッチンから 作りたてのグラタンの匂いがした お取り込み中の真剣な顔がおかしくて ただいまは、たぶん言わなかった 暑いときには熱いものがいいんです そんな説ははじめて聞いたから 焼酎しかないじゃない、とからかった あぁ……というのんきなため息を横目に ぼくは笑って玄関へ引き返し 近くのコンビニで安物の白ワインと思いきや たまには、と日本酒にしたんだ 今宵ぼくらは はくちょう座を漂う氷のかたまりで冷酒を呑む 百億年こんな日々が続いたら 夜空は大変革をしいられるだろう こらえきれない星々は いよいよこぼれ落ち ひかえめに瞬きながら ぼくらの頭上へ降り注ぐ 冷たいしずくは いつもぼくらの胸をかき乱す あの蜃気楼をうち消しては しだいに生ぬるくなっていき 何も請け合うことはできないけれど、と呟きながら 額に頬に降り注ぐ ころころ笑って くすくす笑って ちいさなぼくらは 幻みたいな夕べを過ごした ---------------------------- [自由詩]昨日の痕/久遠薫子[2007年9月4日8時50分] 低い空に積乱雲が育ちはじめる朝 目が覚めたら痕跡はなくなっていた 夢じゃない証拠をさがして 扉をあけて外へ出たり 勝手口へまわったり 冷蔵庫をあけてみたり 蛇口をひねったりした コバルト色した海の水は届かず 森の草いきれも届かず 流れたのはただ 生温かい体液だけだった 明日戦争へ行くという子を 娼婦のふりして抱いてあげた 海底に沈む遺跡のような目をして 充分にうるんだその黒真珠の瞳に 地球の裏側の 小さな太陽を映して 甘く噛めば 甘く噛みかえし きつく噛めば きつく噛みかえす 取り乱したのはわたしのほうだった 海は眠らず いまこそ ありのままの姿をさらし やさしくない腕をのばして わたしたちを呼んだ 苦しくはないからという言葉に こくりとうなずき ふたつの体はゆっくりと まわりながら沈んでいく あけていく夜の終わりが 届かぬよう 中空にそびえる積乱雲が 手負いの人々の声を孕んで いよいよ膨れあがる 囁きは 透きとおったコバルト色の蒸気になって もうすこし 空のあおさをあおくする そんなにむずかしいものを欲してきただろうかと 光の中で倒れ込んだ裸のわたしに 昨日の痕は ひとつ ふたつ 見ろ見ろ、これがすべてだ、と泣いた ---------------------------- [自由詩]閃光/久遠薫子[2007年9月7日6時57分] 空がパッと閃いて 少しあとで雷が鳴った 昨日も今日もたおれそうに暑くて 夕立でもあれば少しは何かを思い出すかしら、と思った この邪魔なおくれ毛は刈りあげるべきじゃないかしら、と思った すぐ脇を通り過ぎる車も みんな焼けただれていた 昨日も今日も泣き出しそうに暑くて おとなしく礼儀正しい人間は丸い月夜ではなく 真夏の白昼まばたきする間に狂気が閃くのだ、と思った バス停のベンチが溶けたあとには 奇跡の花が咲く たぶん後ろの木のほんのすぐそこでは 澄んだひぐらしの音が かなかなかなかなかなかなかなかな かな かな かな おまえも心配なの あきらめるには先がまだ長そうで あきらめたところで何も終わってはくれない 来世のために徳を積む? 独房で祈り続ける日々ならまだしも 帰ろうよ 帰ろう かえろう 帰ってきてよ お願いだから帰ろう うちに帰ろうよ 空がパッと閃くのとほとんど同時に 叫ぶような雷が鳴った 踏み外したら戻れないなんて誰が言ったの バスには乗らない 北も南も星が知ってる もうじき 夜になれば きっとわかるよ   ('07.08) ---------------------------- [自由詩]紫雲/久遠薫子[2007年11月18日15時51分] すこしの未来から この腕の中へ 孕みきれずに通り抜ける風 逡巡の末に口をついた言葉は よるべなく 冷えた石畳へ滲み込んでいく たった十五センチの命 声が 風にのるのは あとすこし 空気が澄んでからのこと 知らぬ間にしなやかに射抜かれた 僅かな胸の血で木の葉は紅く染まり 一枚ずつ色づいて それもまた ひらひら、と風に舞う そのいさぎよさが欲しい ふたりになる ことで いつしか色彩を帯びはじめた孤独 一秒とて同じ色はない 日暮れの空の低いところに 飲み込んだため息のような うすい半月が 放たれて はるか遠く あるいは近く 紫にたゆたう雲 その下に降る雨は 永らえた なけなしの冷静に似て 視界の隅に 執拗に馴れ親しみ 見送りつづけてきた時間の発露 とても静かな とどまる景色のはずれで 濃縮されたしずくが滴り落ちる 草木の、アスファルトの、灯りの、その気配の、 燃え残る夕日に透けた ちぎれた胸の 今はない輪郭を見ている 流れてしまった半身のわたし 浮かび上がるもう片方の影が いずれ降りつもる宵闇にとけて 思うだけは自在でいさせて、と ただそれだけを 口にする間さえもたないとしても ---------------------------- [自由詩]東京/久遠薫子[2007年12月6日6時47分] 寒風に手指をかばう 待つとも待たないともいえぬ朝まだき 冷え切った空気が 空高くから透明に降りて ちいさな公園の 遊具に残る最後のぬくもりを絶やす ほぅ、と湿った息を吐く 団地の側面上部に凍える 番地表記の数字を 低い陽射しがゆっくり ゆっくりと撫でる 融かしていく 暖色の白 どこかで鳥はみつめる ゆうべりんごをむいたら 蜜がたっぷりだったよ 毎晩 死んで 毎朝 生きる とても正しいと思う そんなことも たしかに あった気がする 滲ませてしまおう ラインなど いくつもの 忘れられないものごとで この体はできている 眠れない夜のあいだに 凝り固まった背中を 眼から 耳から ゆるめて 冷たく真新しい空気は 胸の途中までしか吸えず 血のかよわない指先までは届かない 遠く かすかに電車の音が聴こえる 額やこめかみで 脈打ちつづける記憶 早朝の陽射しをあびて 黄金色に輝く木々の どこかで鳥がさえずり わたしは暖かく湿った息を吐いて 忘れていたものごとを ほんのすこし 思い出す そういうふうにできている たぶん それでもいいのだと思う ---------------------------- (ファイルの終わり)