田中修子 2016年12月14日21時45分から2017年4月18日23時40分まで ---------------------------- [自由詩]心象風景二 きみとわたしと/田中修子[2016年12月14日21時45分] 1. 色のない空をつんざくようにそびえたつ黒い山脈 真っ黒焦げになった数万の人々が フライパンの上ゴウゴウと炒られて悲鳴をあげていて それをしている巨人もまた 焼き爛れて狂って笑いながら 泣いている 数万の人々がわたしで 巨人は母だ 2. 炎を頬に感じながら悲惨の脇をとおりすぎ 黒い山脈を越える 月明りで歩ける浜辺 静謐をたたえる海 さざ波が白く わたしは焦げたからだを引きずって (そう、お化けのように 皮膚がつりさがる腕を前に突き出しながら) ミズガホシイと海に沈む なめらかになるからだ 深く 深くへ 銀の青の魚の影 赤い珊瑚や真珠貝を髪に飾り たわむれる人魚たち きれいな泡になり溶け行くわたし 3. あなたは打ちっぱなしのコンクリートに幾重もの鉄の扉だ わたしを抱きながら中をみたきみがそう囁く きっとそちらが本当で 狂女のように泣き叫んだ 壊してそうして溶かしてと そのときのわたしはカッと目がひらくそうだ 4. いま、ジャングルだ 重いような甘い香りを漂わせながら咲き誇る赤い花々 目を打つように眩しい緑の葉 極彩色の蝶ににぎやかな鳥 喉を潤すに足る川、人を食う魚にはご注意だが しめってしずかなあなぐらのなかで わたしときみは抱き合ってねむっている 一瞬だが最高の安らぎを 5. その眠りの中きみをみた 青いゼリーを星きらめく夜を ひとの生きられぬ砂漠を亡者になり彷徨うきみを あふれだしたけがされないであろう泉をみた 強いようで泣きじゃくる囁きをきいたのだ 6. そうして、また、旅をはじめる きみとわたしと 体が地と虫と空に溶けるまでの 永くありながら瞬きのような旅を ---------------------------- [自由詩]獣と鬼火/田中修子[2016年12月20日0時56分] しなやかな獣のようだきみは 脂肪のわずかなあたたかなからだ むしゃむしゃごはんをたべ わたしをむさぼり 疲れたらひっぱたいても起きずに深くねむり あしたははたらきにゆくのだろう 眠れずにきみの とがった横顔をみつめる やわくひややかなわたしは ゆるくきみにからみつき 体温を奪うかわりに 密やかに灯している すでに人を過ぎた 青い鬼火 ---------------------------- [自由詩]ことばあそび八/田中修子[2016年12月22日1時41分] 都会の空に星はなく 赤橙青の電気は偽で ひとは地を天に変え 心を亡くした表をし 早歩きするカラな音 耳塞がずに耳澄まし 赤橙青の星達を魂に ともしつづける為に ことのはを色づけた ---------------------------- [自由詩]風雨の夜/田中修子[2016年12月23日0時44分] 真ッ赤に燃えさかっちまえ そうして真ッ白に舞い上がれ 灰に膿む空をにらみつけるわたしの目は沁みて あの横須賀の廃屋のねむりよ 水色の目の車よ、またぐらでやわらかくあたたかく あたため続けた猫よ おりしも北では大火あり 東では鎮魂するようになまぬるい雨がふり 風がゴウゴウと鳴る あの廃屋であなたと 腹を抱えて笑い転げ こんこんと眠り続け 絶叫して目覚めて 体液を流し続けるわたしを あなたはよし、よし、とさすりつづけ 猫は凛と現実に導いて時は流れた 横須賀の駐車場が見る廃屋の夢 白く笑うあなたまで飲み込んでまどろめばいい 「おねがいだから ひとりに しないでくれよぅ」 かつてあんなにもたくましかった わたしに命を吹き込んだ、あなたが 涙をボロボロこぼしながら 「おとうちゃんと おかあちゃんに あいたい」 そうして 「めんどうをみたぶん かねを くれ」 と さようならさようなら あなたの思い出の骨の灰を養分にして 青い鬼火は獣の子を血みどろに孕む 強すぎる風雨の夜に ---------------------------- [自由詩]散る/田中修子[2016年12月24日0時12分] お母さんがわたしを おなかに宿したとき ピンクや赤や白の花が 見渡す限り一面に あまぁくあまぁくかおって揺れる 夢をいく晩もくりかえしたよ だから しらべなくとも わたしが女の子だと分かったそうです いま、わたしの垂らす蜜は 赤い鉄のようなかおりがするそうよ 淡い花のようで這い虫なんか 気付かぬうちにむしゃむしゃ喰ろうて ドロドロの養分にしてしまう 這い虫溶かすなんて 詰らなくって わたしの花海原を駆け抜ける しなやかな獣の足もとに パッと散らばり 笑いながら飾りたい 獣に踏みしだかれたわたしはきっと とろんとして 散る 散る そう 散る ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]うみのほね/田中修子[2016年12月26日14時29分]  私は中学を出て、友人の家を転々としながら生きていた。時たま家に帰ったけれど、親は何も言わない。マンションの台所のテーブルやそこらには、たっぷりの食事やおやつが大量に何日もそのまま置かれ、腐って匂いを発している。骸骨のようにやせ細った母親は一日中台所に立って食べきれず片付けきれない量のご飯を作り続け、逆に腹が突き出しこの頃は屈むのも億劫そうな父は、そんな母を酒瓶片手に怒鳴りつけている。  私が時たま帰って片付けても、片付けても、腐ったご飯が堆積していく。  だから私は逃げたのだ。  泊めてくれる友人も、特に親しいわけではなかった。迷惑に思っていた人もいるだろうが、学がなくやる気もない私たちの階層にとって、明日はわが身というのは暗黙の了解だったし、みんな外界に対して無関心なので、自分の生活に一人異質なものが入ってきてもどうでもいいみたいだった。だから泊まるところだけはいつもタダでなんとかなった。 男の子には求められ、そんなに嫌な相手ではなければ交尾みたいなのを、する。 だんだん泊めてくれる知り合いが増えていった。簡単に出来るからか、はじめは男の子から男の子への紹介が多かった。そのお兄さんやお姉さん、その友達。  中には数年前まで同じような生活だったという人たちもいた。そういう人たちは一様に親切で、一ヶ月くらい泊めてくれたり、期間は短くても食費分をおごってくれたりして、便利だった。けれどみんな疲れた顔をしている。どこか精神のタガが緩んでいるのか、部屋が観葉植物で埋まっていたり、仕事から帰ってくると透明なゴミ袋の中に入って小動物のように丸まって震えていたり、ユニットバスのとてもちいさな浴槽の中に寝具を持ち込んで寝たりしている、そんな人たちが多かった。  今泊まっているのは真さんという女の人のアパートで、真さんはつい半年前までヒョーリューしていたそうだ。口をはっきり開けずに、言葉をいつもやる気なさげに発音している。背が高く、髪はまっすぐ胸くらいまであって、一重まぶたで目つきが悪い。私はもう一ヶ月半ここで生活している。  今月は少ししか働かなかった。一日中お弁当の工場で、鍋や釜をごしごし洗う仕事で、その場所には『私たちはお客様の幸せのために キレイを作る』という標語が貼ってあった。私は手首の内側の柔らかい皮を真っ赤に爛れさせながら、スポンジをきらきらした蜘蛛の巣のような泡で埋めて、キレイを作る。  ……キレイを作りながら痒みに赤く爛れてゆくばかりの手。  一日中家にいるようになって追いだされるかと思ったけれど、真さんは何も言わなかった。有難いな、なんて思った自分に少し驚く。便利な人、それだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。  真さんはその便利を売っているのだそうで、朝から晩まで近くのコンビニエンスストアで働いている。黄色いアルファベットが輝くファーストフード店で笑顔を売るか、それともコンビニエンスストアで便利を売るかどちらにしようかと迷ったのだけれど、笑顔を売るのと体を売るのはほとんどスレスレなので、便利を売ることにしたと言っていた。  キレイも便利も、多分よいことや悪いことも、人は作ってお金と引き換えることが出来る。何かを爛れさせながら。それに我慢できない私。我慢できない私をゆるしてくれる真さん。  真さんと私は陽の当たらない高層マンションの、暗いけれど清潔なワンルームの、唯一の埃みたいに生活している。大昔に乱立建設されたそのマンション群の中でも、特に奥まったところにあり、高速エレベーターを乗り継いでも地上に降りるのに三十分以上かかるので、この階のほとんどの部屋は空っぽだ。吹きすさぶ風のほかは、とても静かだ。ソファベッドとノイズだけが流れるテレビ(でも、一日中つけっぱなしだ)、小さな台所と小さな四角いテーブル、冷蔵庫、真っ白なユニットバス。空っぽの棚もある。これは何、と尋ねたら、珍しいことに少しだけ笑って、好きなホンがあったよ、と言った。ホンって何。  「こう書くんだ」  真さんは空中に文字を書く。本。……とうとつに、そうだ、私は本を知っている、と思う。 「思い出した……エホン。絵本、読んでもらった、私。あと、辞書……たくさんことばのある、難しい本とか」 「そう。大昔の秩序だ。今はもう、そんなものないけれど。どうやらわたしたちは、昔の人よりずいぶん頭が悪くなってしまったようだから」  真さんはさみしげに笑う。  真さんの朝ごはんは、いつも前日に茹で上げて冷蔵庫に突っ込んでおく、ひからびかけてかたまった蕎麦だ。そこに冷凍のとろろをかけ、時たまウズラの卵をかけ、最後に醤油とマヨネーズをかける。私は真さんの朝ごはんを気に入っている。栄養価もカロリーも高いし、おいしいし、朝ごはんを誰かと一緒に静かに食べられるというのはとても気持ちがいいものだ。真さんはぺろりと食べ終わってから、静かに立ち上がって、そのまま行ってきますも言わずに出て行く。私はだいいたいまたうとうとと眠ってしまう。 目を覚ますと、空っぽの本棚を眺めて、どんな本が入っていたのだろう、真さんはどんな本が好きなんだろう考える。親に、絵本を読んでもらった。そういえば学校で、教科書、も配られた。  なんでうまく思い出せないのだろう。ほんとうに、頭が悪くなってしまったんだ。  それでも一生懸命考える。真さんが好きなのは、多分難しいけれど綺麗な文章の本だ。お話を考えるけれど、すぐにこんがらがっておはなし、ってなんなんだか分からなくなり、いつも思考を手放してしまい、ぼんやり優しい時間に身を任す。 時たまこの階層にまでやってきた雲から雨が降る。となりの棟との細い隙間に銀色にひかる雨がしたたり落ちてくると、コップを突き出してその水を集めて飲む。酸性で、舌がぴりぴりする。そんなことをしていると夜の九時くらいに真さんがコンビニエンスストアで要らなくなった期限切れの弁当を二つ、持って帰ってくる。一緒に平らげてから、真さんはきついお酒を飲み、お風呂に入ってノイズしかうつらないテレビをじーっと見る。そういう光景を見ていると、いつも私は眠たくなって、ソファベッドか床で眠ってしまう。気が付くと朝になって、蕎麦を食べる。その繰り返し。  -その筈だったのだけれど、真さんは昨夜、私が眠っているうちに手首を切って死んでしまった。  ユニットバスのトイレを使おうとしてドアをあけた。浴槽の数センチを血で埋め、ほとんど千切れかけた手首をやさしくさすっているような格好で、真さんはあたたかなお風呂に浸かっているような表情で死んでいた。  トイレを済ませてから警察に電話をして、やってきた警察に少しだけ疑われた。遺書も何もないようだ。けれど、自殺する若者と漂流する若者は、いまどきでは珍しくないので、すぐに解放された。  遺体はドヤドヤと警察が運んで行き、それで、お別れだった。  真さんの部屋にまだしばらく居てもいいだろうと思ったが、きっと、もうこのマンションのユニットバスのドアを開ける勇気は私にはないことが分かっていた。  私は高速エレベーターを乗り継いで、そのマンションから去った。  一緒にいて気持ち良い人をまた探すのは、なんだかとても気力のいることだと、二人の男の人のうちに一日ずつ寝泊りして気付く。会話を楽しむとか、セックスを提供することとか、私には、もうそんな気力は残っていないのだ。真さんの死に魂の一部を持っていかれたような、そんな感じもする。でも、それでもいいのかもしれない。赤い浴槽で眠っている真さんのとなりにいる、私の魂のかけら。目をつむっている真さんによりそって、真さんが目を覚ますのを待っている。あの、静かだった日々が帰ってくるのを待っている。  私は街をさまよい、ふと異臭がする方へと足をすすめていった。箪笥、冷蔵庫、車、扇風機、仏壇、画面の割れたテレビ……、ありとあらゆる粗大ごみの群がある集積場で寝泊りをするようになった。時間がたつうちに分かったのだけれど、そこは粗大ゴミの集積場というわけではなくて、住民たちが勝手に要らないものを放置していく場所だったのだ。シャーレの中で、少しずつパン屑を食って這い進んでいく粘菌のように、ゴミは増え、勢力を拡大してゆくのだ。たぶんここは、政府からも見放された廃棄階層なのだろう。   中に入って少し空間が開けた場所に、誰かがすてた林檎からたくましく育ったのだろうか、ちょうど小さいが味のある林檎の実をつけている木があり、その横にちゃんと屋根が残っていて座席もきれいに残っている車があるのを見つけたのは僥倖だった。  あらゆるゴミの中からある日には七色のパラソルを見つけて拾い、ある日にはベンチも拾ってきて、そうやってゴミのどまんなかに、少しずつ私の巣を築いていく。誰に頼ることもなく、自分の足でしっかり立っていく感覚。  雨の日は車で、晴れが続いた日にはパラソルの下で過ごした。  スーパーはこんな区域の近くはなかったので、コンビニエンスストアで便利を買った。正確には、安いミネラルウォーターと高カロリーのカップラーメン。品物を渡されるときに笑顔を見せられたりすると、少しだけ、胸が痛んだ。便利だけでいいです。笑顔を売るのは、体を売るのとスレスレだから。  ある日、とても曇っていたので、私は散歩に出た。曇っていると、とてもいたたまれない気持ちになる。晴れでもない、雨でもない。中途半端な私みたい。 少しでも気持ちを良くするために、私はとっておきの白いブラウス(でも、もう襟のところがだいぶ薄汚れている)を着て出かけた。  一時間くらい歩くと、街はスラムからビジネス街へと劇的な変化を遂げる。この国には、建物が多すぎる。人も。  街の中には黒や灰色のスーツをきちんと着こなした大人たちが忙しく行き来していて、まるで蟻の巣だった。一人だけ汚れたブラウスでのろのろ歩いている私は鳩のフン、街の染みみたいだ。染みは思う。人工的なビル街は、高慢な表情がきれいだな、と。鋭利な線で繋がれて構成され、不遜な態度で空を切り取っている。  ふと前に目をやると、薄汚れた灰色のタンクトップに穴だらけのジーンズを履いている男の子がこっちに向かって歩いてきた。夢遊病者のように、ふらついたような足取りで、あたりに視線を漂わせながら。-私みたい。私は立ち止まる。彼も私に気づいて立ち止まる。  視線が合ったとき、少しだけ死にそうになった。  彼が何を考えているか全部分かってしまったような、そんな気持ちになったからだ。どんどん体の中に記憶めいたものが流れ込んでくる。  私とこの人は同じような体験をしている。それが分かる。生きるために誰とでも肌をあわせ、いろいろなものを失っている。そういう、静かで悲しいものだけれど、子供のように底の抜けた純粋さもある目だった。  私たちは水の中で泳ぐようにゆったりとお互いに近づいて行く。やがて、お互いの息づかいに触れる。  彼の虹彩は果てしなく暗い色をしていて、私の顔が映っている。その私の顔の中に彼の姿がまた映り、きっと永遠に続いているんだ。  これは奇跡だ。そうじゃなかったらなんだろう。  周りが突然静寂に包まれたと思ったら雨が降り出した。黒や灰色の傘の花が開いていく。彼は辺りを見回してビルの裏手に入っていったので、私はそこで待っていた。やがて彼は黄色い傘を持ってきた。開く。  ためらいなく二人、一本骨の折れた傘の下にいる。  歩きながら彼の姿を見ると、彼は光るような浅黒い肌で、黒い髪の毛で、綺麗な奥二重で、酷薄そうな薄い唇をしていた。腕には美しく筋肉がついていて、私は惚れ惚れとそれを見た。いくつもの暗い傘の花が私たちを追い越し、通り過ぎていく。私たちは暗く深い海に迷い込んだ黄色の熱帯魚だ。  彼が立ち止まったのは、ロビーに面する窓が割れ、窓が割れたロビーにはゴミが散乱している、使われていないだろう巨大なビルの前だ。  エレベーターは動かず、非常階段を登っていく途中、うるさいほどの音響で第九をかけているフロアーもあったし、なぜか水浸しの中で数人がヨガをやっているフロアーもあった。その行為をまじまじと見ると危険らしく、彼は私の肩を抱いて早く進ませる。彼の部屋は7Fの小さな部屋だった。  部屋は汚かった。コンクリートむき出しの床にはカップラーメンやパンやペットボトルのゴミが散乱していた。服もあちこちに転がっていた。デスクを寄せ集めてその上にマットを敷いたベッドがあった。大きな窓があったが、完全にブラインドで塞がれていた。何本もの橙の蝋燭があり、灯がともされてオレンジの香りが漂っていた。  私はまずゴミを一箇所に集め、それから服を抱え込んだ。ひどい匂いがしたけれど、自分もこんなものなのだろうと思った。フロアーの給湯室からは温かいお湯が出たし、流しの下の物入れの中には新品の石鹸が幾つもあった。  私は石鹸の泡を立てながらごしごしと服を洗った。きらきらと泡がたつ、その中には虹色の光。  清潔な香りのその泡で、ぼろぼろのもうダメな服も洗って、あとで自分の体を拭う時のタオルにした。裸になってさっぱりしたときに彼が来たけれど、私はしたくない気分だし彼もそうだったので、彼の体を拭いてあげた。  二人ともおかしいほどごそりごそりと垢が出る。彼も私も着るものがなかったから裸のままフロアーを回って日当たりのいい場所に服を干した。ブラインドのないガラス越しに日差しを直に浴びると、面白いくらいに服がカラリとかわいていく。  少し経つともう、二人でふかふかの服を着ていた。その頃には外に夕闇が下りて、隣のビルの明かりが冷たく灯っていた。お腹が空いたので二人で下まで降りて、ビジネス街の真ん中にある巨大な弁当屋を尋ねた。  弁当屋は24時間営業で、とてつもなく広く、弁当と人で混み合っている。ハムときゅうりとからしマヨネーズのサンドイッチが私の頭くらいまでのピラミッド型に積み上げられているが、てっぺんは風に削れたように平らだ。他の人が少しずつ取って行ってしまったのだ。私はうやうやしく、サンドイッチのピラミッドを削りとり、長蛇のレジに向かう列に並ぶ。  彼はトマトサンドとカップ味噌汁を持ったまま、レジを通さないで店の外に出て行く。私は慌てて彼を追いかけた。 「ねえ!お金……」 「この世界で金がまともに通用していると思うのか? もう誰も覚えていないのに。ほら、誰も追いかけてきやしないよ」 店から出てきた私を自動ドアの脇で待っていた彼は寂しそうに笑って言った。  金がまともに通用しているか、って、どういう、こと?  彼が何を言っているのか分からなかったけれど、オツリ、お釣り、という言葉が急に頭に閃いた。真さんのところで、本のことを思い出したのと同じように。  ものには値段があり、それより大きいお金を渡したら、お釣りが帰ってくる。  それは、いつの時代の話だったか。  今では持っている金属のコインでも紙幣でも、その中で適当に見繕って渡すだけ。コインを渡して紙幣が返ってくることもある。  それなら何故、私は皮膚をすり減らしながら働いていたのだろう。もう、よく分からない。 「あなたは昔の人のように頭が良いのね。羨ましいな」 と言った。彼は又、寂しそうに笑った。  部屋に帰って、盗んできたものをむしゃむしゃと平らげた。かれがトマトサンドに味噌汁を浸して食べていたので、私は自分のハムときゅうりとからしマヨネーズサンドイッチを、横からそっと浸して食べた。  食べているうちに眠くなるような味だった。  デスクの上のマットレスに這い上がり、うとうとした。隣に彼が滑り込んできて、お互いがお互いを猫を撫でるようにして眠った。  朝起きると、二人で部屋を探しに出かけた。私はちゃんとした調理台が欲しかった。そこらじゅうにはびこっている電気ではなくて、古い時代のガスこんろ。青くて熱い火が幻のように立ち上がる、生きている熱。  私は親に電話をして金をくれと言った。一緒に男の人がいるといったらすんなり納得してくれた。私の親たちも昔そうやって出会ったのだ。  彼らは私の漂流の終わり祝いに部屋代を確保してくれた。それから数か月分の生活費として、うんとキラキラした、ごえんだまを一枚あげる、といわれた。-ふと違和感を覚えたが、なんだったろう。そうだ、お金。それだけで足りるんだろうか。いや、それでも多いくらいなのかもしれない。「まともに通用していない、誰も覚えていない」お金なのだから。  彼は大変だな、と思った。昔の人のように頭が良いのだったら、きっとこの世界は気が狂っているように見えるだろう。  彼は部屋から一冊の本だけ持ってきた。「赤い蝋燭と人魚」というその本を見たとたん、涙が出る。真さん、久しぶり、と私は呟いた。その本からは真さんの匂いがした。聞くと少し前に遠くの街の高層マンションのゴミ捨て場にあったのを持ってきたのだという。まとめられて捨てられていたのだが、この本は特に補修されながらボロボロになるまで読んであって、それなのに捨てられなければならなかった事情を不思議に思って拾ったのだ、と。  場所を詳しく聞くとそこはまさしく真さんのマンションだった。読んでいくと、最後のページに「もうだめだ。」と書いてあった。その文字を記して少しして、真さんは死んだのだ。  暗い色彩の海の絵を見ていたら、海の傍で暮らしたい、と強く感じた。彼にそう言うと、彼は頷いて私の手を撫でた。  街を出るときに電線が鳴っていた。電気の唸りが私たちに別れを告げていた。  私たちの新しい住処は地下列車を乗り継いで三日ほど行った、海沿いの美しいスラム街にあるアパートだ。美しいというのは、秩序だった無秩序がそこには存在していたからだ。その街には高い高層ビルはなく、煉瓦や木でできている背の低い建物が中心だった。海の方に行けばいくほどぼろぼろの平屋が増えて行く。コンクリートに慣れている私には、そんな有機的な建物は不思議に、そしてあたたかく見えた。  それに、初めて見る海。なぜ海がほとんど高さの変わらないこちら側にやってこないのか、なぜ海はいつもうねっているのか、よく分からなかった。きっと海の果てには大きな白い壁があって、その向こうの砂漠から人々がその壁を壊そうと大きなハンマーで叩くから、ハンマーの衝撃で海水が大きくうねるのだ。壁を壊せば、砂漠の人々は一瞬で溺れ死んでしまうのに。  その街に暮らし始めてすぐの頃、薄曇の日に、私は彼と一緒に海まで出かけた。建物が目に見えて低く、まばらになり始めると、道幅は広くなり、車が十台くらい並んで走れそうな道のこちらとあちらに、逆に人々の生活があからさまに浮き出すアパートが出現し出す。埃っぽい風を受けながら、水色や黄色のタオルケットが、一部屋一部屋の前の物干しに揺れている。よくわからない言語でおしゃべりをしながら、女たちがしゃがみ込んでビーズでブレスレットを作っている。古いかたちの自転車に乗った白いシャツの少年が、ものすごい勢いで私たちとすれ違う。  ゆっくりと手を繋ぎながら、やがて道に海の砂があふれ出しているところまで来る。砂と、土の境界線は実は厳格で、小競り合いを繰り返しながら決してお互いの領土を侵略しすぎない。  その境界線を私たちはすんなりと踏み越えてしまう。まるで何かから逃亡しきったような気持ちになって、うれしくなって彼の手を振り解いて駆け出した。  薄曇の空を映して、海は青灰色だった。砂に乗り上げて薄っぺらになってしまった海水は、透明なフィルムのようだ。そのフィルムは、一瞬だけかたまり、そしてすぐに壊れて、もと来たところに戻ってゆく。  砂のところどころに小さな骨が落ちていた。取り上げてよく見ると、その骨には空気を通すような細かな穴が一面に開いていた。  「殺された赤ちゃんの骨?」  私は彼に聞いた。彼は薄っすらと笑って首を降り、 「珊瑚が死んでかたまったんだ」 と答えた。私は海の骨みたいだと思った。  彼はジーンズに白いシャツのまま、海に入っていき、ぱしゃりと倒れこんだ。私もスカートのまま膝までつかって、彼が波に揺られているのを見ていた。スカートを、まるで生き物のようにゆらゆら躍らせながら、海水は冷たく脚を撫で、まるで最果てみたいだと思った。ふと、意識がとんだ。  気が付くと彼は私からだいぶ離れたところまで漂っていた。私は叫んだ。最果ての向こうには何があるのだろう。遠くの海を見た。うねりが重なっているのか、水平線は幾重にも歪んで重なっていて、砂漠に住んでいる人の壁なんてありそうになくて、ただ空虚だった。私は叫び続けた。そして彼の手をとり、足を重くして縋りついてくる海から逃げ出した。境界線を越えてはいけないのだ。ずっと走った。街の中心、私たちの住処がある貧しいアパートにたどり着き、体中で叫ぶように息をしている私を、彼は抱きしめる。  もう二度と、海には行かなかった。  私たちが生きている貧しい街は、観光客がうろうろしていると身ぐるみはがれる、そういう場所でもある。  彼は喧嘩がとても強かった。強いというよりは卑怯だったのかもしれない。その街の喧嘩はごく簡単に始まるのだが、ごく簡単に終わるものでもあった。相手が降参を申し出るか、もしくはどちらかが血を流した場合、誰が仲裁に入るでもなく、すんなりと和解が成立する。  けれど彼はそうしなかった。彼は私の目の前で存分に相手を叩きのめした後、どこにでも転がっているガラス片を取って、相手の腕か足を切り裂いて笑っていた。私はその様子をうっとりと見ていた。彼のその欲望は私自身のものだった。私が最後に、床に伏し血を流して泣き叫ぶ男のズボンから財布を盗る。それだけで、十分生活していける。  私はこの上なくこの街を、この生活を、愛していた。  食生活も二人のお気に入りだった。中でも、あの蕎麦は一番頻繁にメニューに登場した。蕎麦を食べるのは朝で、しかも前の夜に茹でて冷蔵庫に突っ込んでおかなければならない。そこにとろろと、ウズラの卵と、醤油とマヨネーズをかけて食べる。  キラキラの穴のあいた五円玉で無事買った暗い部屋は暮らして一週間で散らかった。備え付けのベッドのマットも少し湿っている。その中で彼と体をくっつけながら、一緒にご飯を食べる。彼と私はお互いに子供になる。お互い、自分のしてほしかったことを相手にしてあげると、自分の中の子供も一緒になって喜ぶのだ。だから私たちは何時間も抱きしめたり、撫でたり、ぶったり、それから仲直りをしたりする。世界が2匹の上にかぶさって潰そうとするような冷たさを味わい、お互いにお互いを護りあうのだ。  その中で、彼の手首に太い肉芽が盛り上がっているのに気付いた。  そのときはお互いの身体のすみずみまで、目を瞑って柔らかく撫であうことをしていた。性的な意味はこめないで、柔らかいパンに気をつけてマーガリンを刷り込むときのように、愛情さえも皮膚に塗り込もうとしていた。彼の骨ばった腕をなぞっているときに、てのひらに違和感があり、思わず目を開けてしまった。  もう何年も前の傷らしく、完全に皮膚の色と同じになっていたが、血を流していたときは相当深いものだったに違いない。私はその傷跡を幾度もさすった。そうしながら彼の目を覗き込むと、そこには暗い影は少しもなかった。温かなお風呂に浸かっているような目をしていた。  私たちは多分悲しいのも苦しいのも一周して、海岸の砂のようになってしまったのだと思う。もとは珊瑚や貝殻だったのだけれど、今はさらさらして色のない、なんでもないものに。  ある日、電話が鳴った。どうやったつてで辿り着いたものか、中学校の子からの連絡で、学年単位で同窓会をやるのだという。そこに李もいるんでしょ、と彼女は言う。  どうやら彼は李という名前で、私は同じ中学校の、おなじ学年だったらしい。ただ単に、彼が中学校に通わなかったというだけで、私たちは人生の多くの時間を無駄にしたのだった。彼は行きたくないと言った。私は行ってはいけないような理由は何もなかったので、参加することにした。  二人で私が同窓会に着るものを探しに行って、結局いつもビーズ飾りを作っている陽に焼けた老女から、彼女がまだ花びらのように柔らかな皮膚をしていた若いころのとっておきとして着ていた白いふんわりとしたワンピースを譲り受けた。部屋でそのワンピースを着てみると、彼は私の髪を優しく撫でた。  その日の夜、私たちははじめて混ざった。それは完全に、二人が混ざり合う行為だった。私も彼もとても上手だった。私は彼になり、彼は私になった。ぐるぐるしてよく分からなくなると、優しい水色とピンクが見えた。それははじめマーブル模様だったのだけれど、どんどん細かく砕けて混ざっていった。綺麗な藤色になった。それは夜明けの色と同じだった。いつ始まって、いつ終わったのかもよく分からなかった。気が付くととても静かな顔をして彼が私を見ていた。手をつないだ。温かかった。一緒なら生きられる。  「李、っていうんだね。……私は、私の名前」    私の名前は、なんという、のだっけ。  父にも母にも、真さんにもそうして李にも、呼ばれたことがない。  あなた、お前、君、学籍番号。  私の名前は、なんというのだっけ。 「……名前、忘れちゃった」 「帰ってきたら、俺が付けてあげる」  キスをした。  同窓会の開催場所は、彼と出会った都市の片隅の、今はもう使われていない校舎だった。ビルの何フロアーかを使うものではなく、校舎があって体育館があってグラウンドがある、伝統的だった中学校で、最後の子どもたちであった私たちが卒業し十何年か保存されていたらしい。  私たちはクラス別に分けられ、使っていた教室へ行った。教室には折り紙の鎖がいくつも垂れ下がっていて、黒板には色とりどりのチョークで「おかえり」と書かれていた。黒板が赤や黄色や白でびっしり埋まるまで、「おかえり」の嵐だった。ただいまぁ、とみんなで言った。同窓会だからみんな晴れ衣装を着ていた。振袖や紋付袴、ウェディングドレスやタキシード。仮面をつけている子たちは元苛められっ子に違いない。教室の隅に固まっていた。  仮面をつけて怯えているような子たちに、貴様らはたるんでいる、と英語の教師が言った。なんだ、その姿は。そういいながら、華やかな格好の子達も蔑んだ。物理の教師は片端からクラスメイトを殴っていく。私も何発か殴られた。歯が折れた。国語の教師は延々と百人一首を朗読している。李のことを思った。あなたならこの人たちを殺せる? 殺せるだろう。今すぐ来て、殺してやって。  私は窓の方に体を寄せた。そこにはかつて親しかったかもしれない女の子がいた。彼女は窓の外を指差す。 「綺麗なへび座ね」  空はもう真っ暗だった。ビルの明かりや、流れていく車のヘッドライト、信号、すべてが輝いて街の線を形作っている。そして、空にはコブラが長々と横たわっている。光の洪水だ。目の周りは赤く、体は橙と青で、一つ一つがちらちらと真っ黒い空を背景に瞬いている。 「へび座がこんなにはっきり見えたのははじめて。今日は何かあるのかしらね」 桜の散ったピンクの着物を着た彼女はそう呟く。雲が晴れて、となりにいるもう一匹の小さなコブラも姿を露にする。壮絶なまでにすべてが輝いている。私は夜の空など確り見たことがなかったのだ。  先ほどから教室の前方に備え付けられているテレビに、珍しくノイズではなくニュースが映っていた。その隣で性器を出して自慰している体育の教師がにやにやしている。  まず、たくさんの死体が浮かんだ海の映像が出た。どの死体もどす黒く腫れ上がり、眼球と唇が異様に肥大化して突いたら肉が弾けそうだった。それからサーカスの映像に移った。五段の人間ピラミッドの一番上に立とうとするピンクのチュチュを着た女。顔は白く化粧されている。一番上に立った。足が危うい。そして横に落ちた。カメラは下に落ちていく女を追う。ピラミッドは五段ではなかった。その下に数え切れないほどの人間が段になっていたのだ。恐ろしく高く、女は延々と落ちて行き、カメラが間に合わなくなって、ぐしゃりという音だけが聞こえた。遅れて女の映像が届く。女はねじれた首でこちらを見ていた。そして笑みを浮かべた。それは現実世界のものではない、明らかに何か違う世界のものを見て笑っていたのだ。一瞬あと、血が床にとろとろと溢れ出す。いつまでも広がっている。  気分が悪くなって下を見ていた。アナウンサーが読み上げる言葉。……ザ……街の路上……ザザ…リー…さんが刺されて死亡しました。現場から数人の青年が立ち去ったのが目撃されています。顔写真が一瞬映し出された。李、だった。 画面がノイズになった。  私は立ち上がる。足に力が入らない。世界を遠く感じる。精液をあたりに放射し満足げな体育の教師のところまで行って、先ほどのリー……はこの中学校出身の李ではありませんよね? 登校拒否をしていた李ではありませんよね? 体育教師は笑う。私は座り込む。ふわふわのドレスの裾が広がる。違いますよね?  確かにさっきのはうちの学年の李だったなぁ。  ぐしゃりという音がした。世界は手のひらに握りつぶされた。  李は喧嘩が強かった。まるで楽しむように、生きるように、殴られては殴り返し、相手を負かしては、ガラスで相手を切り裂いて笑っていた。そして、今度は彼が切り裂かれたのだ。そのとき、彼はどんな顔をしたのだろう。なぜだか、笑っている顔しか思い出せない。  泣きたくて口をあけたのに空気が来なくて涙が出なかった。私は水平線を思い出す。私たちはすでに悲しいのも苦しいのも一周して、きれいな薄紫の夜明けの中に、さらさらした海岸の砂のようになってしまったのだ。 ---------------------------- [自由詩]心象風景三 アカラシマの祈り/田中修子[2016年12月27日19時59分] 1. いつから 足りていないものばかりを 指折り数えて呪い 2. 消え入りそうな風のわたしは どっしりとした海のあなたに安らいで ゆるり 守られ はじめて 安息し ながいながい淡桃色のまどろみのあいだ 白いさざ波を数えながら 海猫と戯れ いつか微笑むようになり おなかを抱えて笑うようになり いつかパンと正気がはじけ 天に届くように哄笑した 止まらぬ咳のように笑いつづけた 巫女が舞うさまからできた笑うという字は 幸福にすぎたわたしを ものぐるいにした 3. ものぐるいのわたしの舞いは天にとどいて いまわたしはアカラシマ 暴風だ 穏やかな海は荒れ果てた 銀や青の魚は散った 赤の珊瑚はま白な海の骨に ただ海猫だけが一匹 あなたの上にニャーオニャーオ、と舞い わたしは海のあなたをあとにした 泣き叫び 垂れ流しながら 4. アカラシマの首はいま 獣の手に預けられている いつでもひねっておしまいをくれるように 獣の、いっけん滑稽のように細く その実は全てひきしまった筋肉の体に わたしは欲をする さまざまな世界の穢れを旅し そのなかでわたしを選ぶという獣よ アカラシマを愛し続けると誓うきみよ きみも立派なものぐるいさ わたし、いつか、きみ、 5. それでも火の獣のささやきでは アカラシマのわたしの中は いま 春のかわいらしい花が 咲き乱れているという 美しい蝶が夢のように舞っている そのひとひら ひとひらを 綺麗だなぁって  少女のわたしがほほ笑んでいる 足りているものをかぞえれば 天の星よりなお多く アカラシマは ただ 祈る ---------------------------- [自由詩]からみあう手/田中修子[2016年12月31日2時27分] ずっとあなたを探していました ながすぎるほどのときでした 目は赤く腫れあがり 世界に火を放ちたいほど呪詛吐いた 赤錆の匂いはつきまとい離れずに そろそろ、いいか、とおもうころ わたし あなたを さがしあててね あなたのいるまちにきちゃったわ なんもないというけれど 夜空に星はこんなに浮かんでいるね 数えきれないキラキラね けれどいつか ふたりおしまいまでにかわす口づけはね 天の星より その瞬きよりたくさんなのよ わたし わかるの なぜだか知ってる 月はこんなに静かにひかるの 北のまちのさらさら雪は 肺を澄ましてゆく静謐な真っ白で わたしを飲みこみ わたしが発した 恐ろしい炎の赤と ゆるやかに混りあい やわらかな金桃色の あかるいあかるい夜明の東になった それ、わたしの憧憬だった しなやかに筋肉が熱を発す あなたは人をこえた獣ね 心音に耳あてる ちいさな真っ暗な寮の部屋でわたし 果てまでの夜明け瞼にまざまざ浮かんだ わたしはあなたをさがしあてた あなたもわたしをみつけてくれた からみあう、手 ---------------------------- [自由詩]1945、夏、わたしにつながる歴史/田中修子[2017年1月5日21時02分] わたしはきっと見たことがある 祖母の灰色の目をとおしてだけれど B29がつきぬけるように真っ青な 雲一つない空をはしってゆくのを 疎開するため 汽車で広島を出るとこだった ちいさな伯母さんの手をひいて 大きなおなかには母がいた ぎゅうぎゅうに人がつまったすきまのない汽車 息をするのも喘ぐよう B29の轟音がして 汽車は急ブレーキをかけた 撃たれまいと生き抜こうと 人々は蜘蛛の子ちらし 近くの木々へ 野原のかげへ わたしにはもう元気がなかったんや 空っぽの汽車にわたしと叔母とおなかの母 三人きり 息が広い ゆっくり座れる それだけでもうええ ぜいたくや オカッパ頭の伯母を抱きしめ 重い腹をぎゅうっとかかえ 窓から外をながめてた ああ、青をぶちまけたキレエな夏の空を B29がすべりぬけてく あんときなぁ 狙撃、されんかったなぁ なんでやろ 歳月に洗われて 銀色になった祖母の声には にくしみもかなしみもよろこびもない --- 【petit企画の館】/蝶としゃぼん玉(303) http://po-m.com/forum/threadshow.php?did=320890 主題、歴史 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]千年の海/田中修子[2017年1月8日21時36分]  朝日が昇ります。夜の黒に近い藍色を押しのけ、宝石のように透き通った朝の赤が空を染めています。砂丘の色はまだ、黒。赤と黒のコントラストは、流れ出す傷とかたまったかさぶたのように美しい。つぎに瞬きすると、赤い空の端にブドウのような赤紫色がじんわりと滲みだし、やがて薄紫色から空色へ。  砂丘も薄い黄土色にかわり、あちらこちらに満ちていた赤は、いつのまにかすべて消えてしまいました。  私はほっと息を吐きます。真上に白熱した太陽が昇りきって、昼の砂漠です。黄土色の砂、黒や茶の岩石。あと一時間ほどで辿りつきましょう、目の前の砂丘の上で、キラ・キラと輝いているものがあります。私は数え切れないくらいの朝や夜を超え、ずっとその光を追って歩いているのです。  私はこの砂漠のヌシです。私の心の作り出した砂漠の幻影が、形を持って狭いアパートに広がりだしたのはもう遠い遠い、おとぎばなしとおなじほど、むかしの話。  はじめは部屋の隅に砂が散らばっているだけでした。安っぽい壁が砕けたのだろうと思い掃除機をあてても、すぐにあたらしい砂が落ちてきます。  三日目くらいには、箪笥や机の引き出しや水道の蛇口から、まるで水のようにさらさらと黄色の砂が湧いてきました。  一週間目には箪笥や冷蔵庫などがあたらしい形相を持ち出しました。触るとごつごつと硬い、背の高い岩石へ、歪んだり捩れたりしながら変わっていきました。  同時に、部屋は奥行きを持ち出しました。黄色い砂に覆われた床が、膨張し、すぐそこにあった壁がものすごい勢いで遠ざかる。  そこまでなったとき、私は大学へ行くのも、外出するのもやめました。もともと玄関だった場所で、ただそこだけ残った鉄の扉に背中を預け、砂漠をぼんやりと眺めていました。  扉は、砂漠のまっただなかにぽつんと立っています。私はこの砂漠のヌシなので、飲まず食わずで生きていけます。暑さ寒さは感じますけれど、死に私を導くことはありません。服装も、ワンピースだったのがいつの間にか頭にターバンを巻き、オレンジの布を体いっぱいに着込んでいました。  時間というものがここではねじれるようで、もう、いつだったのかよく覚えていないのだけれど、砂漠が作られてから、まだ、そんなにたたないうちだったと思います。  連絡がとれない私を心配して(電話機はとっくに一抱えもあるような岩に変わっています)、付き合っていた人が尋ねてきました。合鍵をつかっていきなり踏み込んできたのです。小さいけれど上品そうな、美しい赤い袋を持っているのが、不吉に私の目には映りました。  もう会わないつもりでした。私は砂漠の中での、時の流れているかそうでないか分からない生活が気にいっていたのです。  昼は雄大な砂漠の中をふいてきた風、強い日差しにあたって皮膚が沸騰するようにめくれる痛みに、飲まず食わずのこの体が、しっかりと生きていることを知る。  夜には凍えてガチガチ歯を鳴らしながら、ものすごい色彩の満天の星を眺める。銀に金、藍に朱、全ての色を星は持っていたのです。  そうしてまた、砂丘の様相が大きく変わる朝が来る。    あまりの昼の熱さ、夜の寒さ。  風景に圧倒され、何も考えず、何も言わない。ただ、見つめるだけ。それでも空や砂は私を見つめ返してくれる。時に痛みを感じさせられながら。  そのような静かな包み込まれ方に、私は充足していたのです。人のいない、やさしさ。  私は本当は人が嫌いだったのかもしれません。それなのに、それだから、外の世界では優しい彼を松葉づえとして便利につかっていた。  私の精神は不具。  外見はまともに見え、そこそこ可愛らしく見えるように毛づくろいをし、支えてあげなければと思わせるように顔面を幼く塗りたくり、あなたがいなければ生きていけないのです、それだけあなたを愛しているの、一生離さないで、と囁きながら、私は、ほんとうに彼を愛しきっていたでしょうか?  いえ、私が私以外の誰かを愛したことが、結局あったでしょうか。  人としてごまかしていきていくのも、これで最後にしなければならない。外の世界では不具者で、彼に迷惑をかけるだけの存在かもしれない。けれども砂漠の世界では私は、空や砂やゴツゴツした岩や、夜に浮かぶ金の銀の藍の朱の星と、なんの変りもないのです。醜くも美しくも、ただ、そこにある。  ただそこにある。    ちいさな赤い袋を持って入ってきた彼は目を見開きました。ゴクリ、とのどぼとけが動きました。  彼はおそるおそる屈み込んで、砂漠の砂を掴みます。そうしてそれが本当の砂であるかどうかを確かめるために、幾度もさらさらと落としました。出てきた鉄のドアを振り返ります。ノブに手をかけて、少しだけ開けてみました。普通に二階の廊下が見えるだけです。  後ろ手に閉めてから、 「これはなんなんだ」 「砂漠よ」  私は答えました。問いが滑稽だったので、少し笑ってしまいました。  彼は私の左腕を掴み、強く引っ張って立ち上がらせました。そのまま、扉をあけて外の世界に私を押し出そうとしました。強い恐怖を感じました。うまれてはじめて、悲鳴をあげました。甲高い、自分のものではないような声でした。 「出て行って!」 恐怖とも怒りともつかない真っ赤に焼けた塊が喉の奥で転がりまわっています。すごい勢いで腕を振り解き、走って逃げました。彼は扉のそばで固まったまま、動きませんでした。 「帰ってよ、そうしてそのままもう来ないでちょうだい、どうして来たのよ、もういらないのに! 外の世界なんか、私はもういらない!」 (……外の世界に必要とされていないのは、本当は私ね) 私は扉を指しました。彼は一瞬迷ってから、私の方にゆっくり歩いてきました。 「その、誕生日だから、おまえの。今日は。連絡が取れなかったし、プレゼントを持ってこようと思って」 しどろもどろに言いました。さっき私の腕を掴むときに落とした、滴るように赤い袋を拾うと、手荒にあけました。その中からまた、落ち着いた茶色のサテンのリボンでラッピングされた小さな箱を取り出しました。リボンも引きちぎるようにして開け、箱を壊し、きらりと光るものがありました。 「指輪をあげようと思って」 小さなダイヤモンドのついた、柔らかい金色を放つ指輪をそっと取り出しました。  ああ、嫌だと思いました。  私は自分の生まれた日のことなんて、わすれていたのに、それで良かったのにと。  またなんとも言えない怒りがこみ上げて、それを言葉にできなくて、震えました。彼は指輪だけ持って、そろそろと近づいてきました。あと十歩、九歩、-五歩、四歩、三歩-どうすればいいのか分からないんです。  私はもう放っておいてほしいんです。いくら愛されても、疑うことしか出来ぬ私は、彼が私を愛そうとするだけで、痛くて、仕方がない。    突然強い風が大量の砂と共に吹き付けてきました。  あっという間に視界が黄色に染まりました。思わず座り込んでしまうほどの強風でした。それでも私は砂漠のヌシなので、足に少し力を込めて立ち上がりました。今はもう、やすやすと人が飛ばされてしまいそうな風でした。ターバンがとれ、髪が風に舞い踊ります。ああ、私が嵐ね。髪が切れるような鋭さで顔にあたりました。彼の叫び声を聞いたような気がします。  風は去りました。遠ざかると、風は風なんてものではなく、天に届くような竜巻であることが分かりました。黄色い砂をひゅんひゅんとかき回しながら、砂丘を崩し、砂漠を切り裂いていくのでした。  ドアも、彼も、なくなっていました。  大きな砂丘の向こうに竜巻が消え、静寂が戻ってから、私は不意に後悔しました。外界に戻るためのドアが失われたのはほんとうにどうってことはないのです、けれど彼は……、この一見狂った世界で私をまっすぐに見つめてくれ、あの、やさしげに、指輪を差し出してくれた、彼は。  私は走りだしましました。竜巻よ、止まれ、止まれ!  巨大な螺旋は遠ざかってゆくばかりで、私の命令を聞いてはくれません。  私は、砂漠のヌシなのに。  なぜなのか分からない、熱い砂に足が焼けて、悲しいはずなのに声も出ない。遠ざかる、今となっては小さな影のような竜巻を見つめるのが精一杯でした。  あれから何十年、何百年経ったでしょうか。私は彼を探してさまよい続けてきました。ある日、遠くの遠くの砂丘に、砂と石で構成された、この世界ではあるはずのないきらめきを見つけた時の喜びを忘れることは出来ません。きっと、あの小粒のダイヤモンドの輝きでした。それからの年月は飛ぶように去ってゆきました。  今はもうはっきり見えています。小さな指輪です。それと、そのとなりに転がっている、されこうべの姿がです。  あと十歩、九歩、-五歩、四歩、三歩、二歩、一歩。  私は砂丘のてっぺんで、高々とされこうべを上げました。そしてぎゅっと抱きしめました。足の力がぬけて、ぺたんとすわりこみました。されこうべにしばらく頬擦りしてから、そっと指輪を持ち上げました。左手の薬指に嵌めます。太陽の光を浴びて、私の目にとてもまぶしいものでした。  足の上においたされこうべが、カタカタと鳴りました。  「千年、待った、よ」  少しかすれてはいたけれど、彼の声でした。  私はされこうべを抱きしめて、泣きました。  考えてみれば、千年ぶりの涙でした。いや、砂漠が出来るずっと前から、私は泣いたことがなかったのです。  されこうべのぽっかりと開いた目や鼻や口からも、どっと透明な水が溢れ出します。ドーンという音にあたりを見回してみれば、四方から水が迫ってきます。彼を抱きしめているので、怖くありません。  もうすぐここは、暗くて清浄な、海の底になります。 ---------------------------- [自由詩]あまい雨/田中修子[2017年1月11日8時10分] となりでこんこんとねむっている君は いま、夢の旅のどこらにいて どんな風景を見ているのだろうか 空を飛んでいるのかな くらい深い海に潜っている? なにしろきみは獣だから 草原を走っているのかもしれないね ねむりはちいさな死というけれど ねむりは旅 たくさんのみずからと出会う旅 ゆきかうひと 金にかがやく雲 夜の空にきらきらひかる星 海にすべるように泳ぐ 銀や金の魚 かけぬける草原に パっとちらばる花でさえ あれは すべて 君自身だ 君がねむるとき ねむれないわたしが横にいるとき 君はとおいとおい旅に出ている わたしをひとりぽっちにして 規則正しい寝息は スタスタと私から遠ざかる足音 わたしをおいていかないでと囁いても眉をしかめる そっと布団から出て泣いた きみの夢の中 わたしの あまい雨が降っている ---------------------------- [自由詩]こむら返り/田中修子[2017年1月13日8時31分] 怖い夢を見て こむら返りして いててってなった ひとりなので足のつま先を 顔のほうへ曲げてくれる人がいない 昨日まで雪の降るまちにいて 彼の仕事の手伝いをしていて たくさん食器を洗い きゅきゅっと鳴ってカラリとかわいて すこしがんばりすぎました 仕事場への道には もうすぐお仕舞いの冬のばら一輪 赤いのの色が抜けかけて うすく黄色い 花びらの杯に ちいさいあられみたいな 雪が溜まっていた 春になったら雪虫は 白いモンシロチョウになって 飛んでゆく 精悍な獣のような若い彼 彼にはきっとこむら返りは まだ起こらない 灰のように白く笑う 私に命を吹き込んだ はたちうえの かんばん屋のことを想う 暖かい漁師のまちの あのひとはきっといま 年よりの猫といっしょに眠ってる きっとこむら返りをおこすこともあるでしょう そうして ひどくさみしい思いをしているんでしょう ---------------------------- [自由詩]二羽の白い鳥/田中修子[2017年1月18日23時12分] 下弦の月から放たれたように 斜めに白い線が奔っていた 夜の飛行機雲 こんな時間帯に ずいぶんと低空に飛ばしている 旅客機か 観測機だろうか、と、君がいって わたしは感心してたちどまる 君の愛しいひとは 津波にのまれて消えてしまった そうして君は炎に 飲みこまれ 狂って走って 死ぬように生きてきた 星のない都会のきらびやかな夜に続く むなしいような朝の静けさ 途上国の死んだ魚の女の目 死を売りさばいて生きる人々 君はずいぶんと かなしい物知りだ ながいあいだわたしの世界は わたしの中だけだった 夢の中をずいぶん旅したし 木や石や川はいじわるをいわない 本は知りたいことだけ しずかな声で教えてくれる メアリ・ポピンズの皮肉っぽい笑い声に ムアが咲き誇って三人が笑う秘密の花園 真夜中の庭に繋がる十三回目の時計の音 わたしはゆめみがちな物知りね 君のかなしいものしりと わたしのゆめみがちなものしりがまざりあい ポン!! ってはじけて これから をみせてくれたでしょう さぁ、晴れた青い空だ、陽光にきらめく青い海だよ わたしたち、二羽の白い鳥 これからどこまでも一緒に 空翔る ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]夢夜、一 「灰色病と、花輪にうずもれるボルゾイの長い首」/田中修子[2017年1月22日20時00分]  細い細い青い糸のような雨がまっすぐに落ちていて、周りは湿り気をおびた青灰色の世界だった。  私は巨大な石造りの、崩れ落ちかけた円形闘技場の、座るのにちょうどいい四角い石にちょこんと乗って、しめったい黒のレインコートで雨を防いでいる。  白い巨大な犬たちが、目の前をかけぬけてゆく。私は白い犬たちの見送り人、たむけの色とりどりの花束や花輪を作っている。  石造りの円形闘技場ではあるが、そのなかで闘士が金をかけられて殺し殺され合い、うらみの赤い血が流され、闘技場に染みついてきたのははるかはるか昔のこと。  その次の平和な時代には、そこは市民劇場として利用されていた。きらびやかな衣装をまとった美しい俳優たちが歌や舞いでもって、はるかはるか昔の、殺し殺され合いうらみの血を流し息絶えた赤い闘士たちと、死にゆく闘士と愛し合いかなしみの赤い涙を流した恋人たちとの悲恋を演じた。観るものは酒を飲み、うちからもってきたつまみをかじりながら、大人から子どもまで、悲恋に涙を流すのだった。  よい、時代だった。  しかし、灰色の時代がやってきた。そう、いわゆる、ミヒャエル・エンデによって「モモ」に語られる時代。  あのときモモは勝利したが、モモ亡き後、灰色の男たちはまたやってきた。  モモに代わるような女の子はもういなかった。後継者たちはなんとか負けまいと語り継いだが、やがて、すべてが忘れられた。絵本も、本も、クラシックなど手間のかかる音楽も、花を飾るといったことさえ、いまではごく一部の裕福であるか頭がおかしいか、どちらかのものしか興味を持たないのだった。    いま、すべてを支配しているのは、灰色の便利。24時間、こうこうときらめくコンビニエンスストアだが、よく見てごらん。  コンビニエンスストアのきらめきは、本当に光っているかい?  コンビニエンスストアに照らされた場所は、色を抜き取られて灰色になっていく。入っていく人、出ていく人もおんなじだ。  ひとびとは時間をむだにしまいと、はやあしで歩く。ぶつかってもすこしの会釈もせず、チっと舌打ちをして歩いてゆく。  古い町並みは整理整頓され、同じような家やマンションがならびたつ。  同じような家やマンションの中で、同じような家族が、同じような幸せが作りだされ、すこしでもその幸せになじめない人々は、同じような精神の病におかされていく。その病にかかったものはこういうのだ。  「なんだか世界が灰色にみえる」 と。  精神の病は、灰色病と名付けられた。  そう、告白しよう。私も灰色病と診断されたものだ。あるときから同じ制服の人々、同じ仕事をする人々がいる場所に行けなくなってしまった。そこに無理矢理行こうとすると、冷たい涙がボロボロあふれてたまらない。それに、なんたって色彩がないのだ。ぜんぶ灰色なのだ。  「あなたは少しいま頭がおかしくなっているのだから、カウンセリングにいきなさい。やる気の出るお薬を頂いてくるといいわ。灰色病を治すいいお医者様を知っていてよ。七色薬というのがあるそうよ。普通の人よりとっても素敵に世界に色が付くそうよ」 母が明るい声で言ったが、その目に含まれている静かな軽蔑を私は感じとる。私は母の理想の器から落ちこぼれた。 「そう、ママの言うとおりにしなさい」 父は経済新聞を読みながらいう。  ああ、灰色だなぁ。  七色薬のことくらい、私もネットで調べて知っていた。七色薬から離れられなくなった人々のネットの掲示板や、灰色病からの回復ブログ。同じような文章で、七色薬のおかげで、灰色病から克服した幸せが語られていた。  けれど、それを読んでいつも違和感を覚えていた。  『紫陽花が綺麗な季節ですね! 七色薬を飲んでから、紫陽花が銀色に輝いて見えるんですよ。本当に素晴らしい薬です』  『今日の雨の色、素晴らしくなかったですか? まるで鮮やかなピンクのフラミンゴみたいな色の雨でしたね』  『いやぁ、紅葉の季節ですねぇ。真っ青に染まった紅葉が舞い落ちる、いい季節です』  そうして最後の言葉はこれだ。  『七色薬なしには、もう生きていかれませんね!』  灰色の世界の方が、なんぼかマシのように思う。    母からカウンセリング代と病院代をもらい、最後の灰色の世界を堪能するためにふらりとやってきたのが、両親や教師から立ち寄るな、と禁止されていたこの円形闘技場だった。  あんな歴史建造物、壊してマンションにして、働く人を増やした方がこの町の発展になる、と、両親も教師もいう。しかし、苦虫を噛みつぶしたような表情で、あそこは花の時間にまもられている、という。  あそこには、モモが亡くなるときに残した時間の花が咲いている、と。だから、マトモな人間は近寄らないほうがいい、と。効率的な行動を吸い取られて、本や季節や料理を楽しみながらのんびりとしか生活できない、この世には必要とされない人間にしかなれなくなってしまうから、と。  私はもう必要とされなくていい。灰色病になってしまったし、これからもし七色薬をみても、おかしな色の世界でいきてゆくだけなら、もう、いい。  円形闘技場のなかに入る。  そこには、外では降っていなかった細い細い雨が降っていた。  それは、静謐な澄んだ青い色をしていた。  闘技場の中は青灰色にけぶっていた。  まだ世界が灰色でなかったころ、梅雨の時期に見えていた色だ。  私が愛する、静かな青色。  闘技場の中には、巨大な真っ白い犬たちが、音もなく闘技場の中をくるくると駆けていた。ふと気付いたが、同じ犬たちがずっと闘技場を駆けているのかと思ったが、そうではない。何回か駆けては、ほとんどの犬が消えてゆくようだ。中には、ずうっと走り続けている犬もいるようだけれど……。  その中の一匹に見覚えがあった。  老いてまっしろに近い色になった、シェットランド・シープドッグ。  私が幼いころ、老犬になって面倒を見きれないという理由で、どこかに連れて行かれた、私の親友だった犬だ。笑顔みたいな犬の口。目が合う。私の前をかけぬける。そうして、もう、私の前を走りぬけることはなかった。消えてしまった。  涙がボロボロと出てきた。  それは、あたたかい涙だった。  「ここには、屠殺場で殺された白い犬たちの魂が集まるんだよ。好きなだけ駆け抜けて、満足したら消えてゆく」    立ちすくんでいる私に声をかけてきたのは、どこからあらわれたものだろう、腰の曲がった老人だった。白髪に穏やかな茶色(茶色!)の眼差し。目が少し悪いのか茶色の目は蕩けかけているようにも見えるけれど。どれくらい洗濯されていないかも分からない、古びてボロボロになった緑色の(緑色!)ジャンパーに、ぼろぼろではあるけれどあたたかそうなベージュ(ベージュ!)のだぼだぼのズボン。そうして黒いレインコート。  この闘技場には、この老人には、やわらかな色がある。  「あのシェルティーは、ずっとずっと駆けていたんだ。どうしたかな、と思っていたが、お前さんを待っていたのだね」 「そうですか……」 「降る雨は犬たちの、あわれな、心を失ったひとびとを思う涙さ。さて、いきなりだが本題だ」 「はぁ」 私はもうこくこくと頷くだけだ。 「わしのこの仕事を引き継いでほしい。いや、なに、かんたんな仕事だ。あそこに年中何もしなくてもみのる畑があり、年を取らぬヤギや勝手に増える鶏もいる。贅沢を求めなければ、麦や野菜や乳、卵で生活していけるはずだ。そのうちにヤギの乳で酒も作れるかもしれないな。闘技場の入り口が雨よけの場所になる」 ごくり、と私の喉が鳴る。ほとんどの日、私たちはペースト状の栄養飯で生活しているから。 「それから、重要なのは花畑だ。ほれ」 「花畑? そんなもの、見えませんが」 「闘技場の、石段の上さ。石段に見えるがね、あれはみな花壇なのさ」  ああ、と私は声を噛み殺した。  いつのまにか、石段の上には花々が咲いていた。  青い紫陽花、赤やピンクや黄色のばら、重たげに頭をさげる八重の山吹色、しだれて咲く淡いピンクの桜。ここからは見えない花々も多いだろう。見上げる闘技場は、いつのまにか闘技場自体が花瓶のようだ。  「わしは、七色薬の発明者さ。数十年も昔、わしの髪がまだ真っ黒だったころよ」 「え、あなたが」 「そのころ、わし自身が灰色病を発症しておってな。ただただわしは、元の世界の色を見たかったんじゃ。研究し研究し、元の世界の色を取り戻す薬を発明した、しかし」 老人はかなしげに笑う。 「同輩には、元の色を取り戻すだけでは足りぬ輩がいた。製薬会社もそうじゃった。いつの間にか七色薬はわしの手の届かぬところにいった。もっと素晴らしい、華やかな色を!! 世界をバラ色以上のものに!! そうして、灰色病の発症者は、灰色病であったほうがまだよいような、狂った世界で生活しておる。わしは、そのころ唯一のわしの親友であった犬のボルゾイの白亜を連れ、闘技場に来た、いや逃げた。そのころのこの闘技場はは空っぽじゃったよ。わしは餓え死ぬつもりでおった。何日飲まず、食わずだったかもう覚えておらん。倒れた。そして起きた。干からびてからからになっておったはずのわしの体はピンシャンとしていて、わしのかわりに、白亜がひからびて倒れておった」 笑いを作ろうとしている口元が震えている。 「白亜を埋葬したところから、何もしなくてもみのる畑が、年を取らぬヤギや鶏が湧いた。闘技場の石段が花壇になり、花が咲き乱れ始めた。そうして、白い犬たちが駆け抜けはじめ、わしはまいにち、あれらの花の手入れをし、かなしい顔をしてよってくる犬には、花で編んだ首輪をつけた。そうしてわらった犬は、何周か走ると消えてゆくのさ。この仕事をしてもう何十年になろうか。しかし、そろそろ潮時じゃ。わしは、そろそろ死ぬ。なんとなくわかるもんじゃよ。だから、お前さんに、この仕事を引き継いでほしいんじゃ。単調な毎日じゃよ。飯を食い、花の手入れをし、かなしい顔をした犬に花の首輪をつけ、眠り、起きる。それだけの毎日じゃよ、しかし、お前さんには合っておるような、そんな気がしてならぬのでな」 「お引き受けします」 私は老人の手をつかんだ。年月が刻まれてかたく、あたたたかく、働き生きてきたことを証明する、シミの浮き出た手。老人は満足そうに笑った。あたたかい茶色の目がカラメルのようにとろりととろける。  そうして老人はふっと透明になり、消えた。あとには老人の着ていた服だけがパサリと落ちる。  白い犬たちが足をとめた。  そして三回、声を揃えて遠吠えをした。老人を見送ったのだ。また走り出す……。  あれから何十年の時が経ったか分からない。もう、数百年経っているのかもしれない、とも思う。私は老人の服を着て、老人になり、ふりしきる水色の雨の中で飯を食い、花の手入れをし、かなしい顔をした白い犬に花の首輪をつけて見送り、眠り、起きる生活を続けている。  ときおり、外の世界の七色薬から逃げてくる人もいる。いまでは七色薬は七万色薬になり、灰色病でない人間も常時飲むようになっている。  後継者はまだあらわれないが、必要な時には、きっと来るだろう、そうして私もまた掻き消えるのだろう。  今日の花輪はなんにしようか。ボルゾイがこちらを悲しげに見つめている。摘み取った赤の梅の花びらに糸を通し、長い首を飾ろうと思うが、この子だけはいくら花輪を重ねに重ねても、この闘技場から去ろうとしないので、女のように長く美しい白い首はあらゆる種類の花々にうずもれてしまっているのだ。 --- 夢を見たら書き込むスレ http://po-m.com/forum/threadshow.php?did=7726 ---------------------------- [自由詩]ウサギの檻から抜けて/田中修子[2017年1月27日10時51分] とてもかなしい事件があって きいているだけで涙がでた 小さい赤ちゃんが両親に ウサギの檻にとじこめられ 弱って 死んだ ニュースに耳をふさぐわたしにきみが これから大切なのはことばだという ことばは人をゆたかにする 少なくともことばの世界なら ひとや自分を殺しても 本当にはならないし やさしいことばは 空っぽになったひとのこころを 手当てする ことばを書くひとは だから 必要なんだよ わたしは泣くのをやめて このことばを 綴る 赤ちゃんの魂が ウサギの檻から抜け すべてのひとの やさしくみちたこころに 安心してねむる日がきますようにと ---------------------------- [自由詩]ことばあそび九/田中修子[2017年2月1日2時41分] 赤い鳥居にシャラン鈴の音 綺麗に舞う黒髪の巫女さん おしまいに飲んだ御神酒に ほかりあたたまり赤らむ頬 わたしの厄は去ったかしら まっ白な梅の花がひとひら 地に落ちるをぼうっと追う すこしぬるりとする春の風 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]夢夜、二 「春祭りの日に」/田中修子[2017年2月1日18時59分]  私は女刺客として育てられた。  数百年この国は、贅をつくす不死の王家に支配され、民草は汁を吸われつくしてきた。  老人も、働きざかりのはずの男女の顔も、暗い影におおわれている。聞こえて来るのは溜息か、狂気の笑い声だけだ。子どもや赤子は病にうばわれ、めったにみかけることがない。  数百年の間、もちろん何回も王家に反旗をひるがえした人々はいたが、成功したことはない。いずれも、直前に指導者が王家側に寝返るか、あるいは正気を失って部下を虐殺し、みずからも死んだ、と言われている。  そんな、滅びへの道しか見えない国でも、他国からの侵略を受けぬどころか、若い奴隷や食糧、香辛料、宝飾品などの貢ぎ物が毎月港に届けられ、王家の住まう赤珊瑚の塗られた紅城だけはいつも輝いていた。  不死の王家による不思議な力は、いまやこの国だけでなく、他国を飲みこもうとしているのではないかと思われた。もっとも、その他国とやらも、知識人が殺されつくし、焚書がされて久しいいま、どんな国であるのか知るものなどいないのだが。  疲弊したこの国で、私は最後に革命を起こそうとして気が狂い、自分と妻と一族を殺した指導者の子どもだった。  父の体は赤子の私の前で実がはぜるようになっており、赤い血にまみれたその中で、私がひとり、バラバラになった父の指をしゃぶりながら、生き残っていたそうだ。  運命の子である私は、革命家の仲間である老女に引き取られ、地下の白骨堂に忍んで生きてきた。  残された本にこの国や外国の歴史を学び、人を殺すすべはすべて教えられた。  それだけに受けた生であったから、地上の世界はあまり知らない。   私が殺さねばならない、特に不思議な力の強い王家の四人の肖像画は、白骨堂に飾られていた。  桃色につやつや光る頬をして、でっぷり肥った、しかし人のよさそうな顔をした飽食の王。  人々の血税から作り上げられた、宝石で編まれたドレスをまとうきつそうだが賢そうな顔立ちの女王、まだ十代になるかならないかの、無邪気に笑うかわいらしい王女。  大理石作りの湯殿で、豪勢な花を浮かべて湯浴みと女遊びをやめぬという、そうは見えないどこか儚げで柔和な顔立ちの王子。二十になるかならないか、私と同じ年頃であろうか。  老女とふたりきりの白骨堂で、動かぬ肖像画の王家の四人は、まるで私を見守る、私の家族のようにも思われた。いずれこの手であやめなければならぬ、愛しい家族。  その日はやってきた。  私を育てた老女が、大きなきれいな包みを持ち、いつもと違う優しい様子で私のもとに来た。  私の、修行でズタボロになった、着慣れた服を脱がし、良い香りのする湯を染み込ませた布で体を拭く。そうして、見たこともない、銀色の華やかな衣装を着せてくれた。伸ばしっぱなしのボサボサで、腰まであった髪もよく梳かれて高く結われ、とりどりの簪が刺され、唇に紅を引かれる。老女が私の顔を両の手で包み、自分の命を注ぐような強い目で、私に告げた。 「時が来た、春祭りの時がきた。  お前の、陽に当たることが少ないから透き通るように澄んだ白い肌。そしてその凛として素晴らしい容姿。  王家は春祭りの日に空を掛ける牛車に乗って国中を巡り、春祭りに浮かれる美しい若者をさらい、王宮にて贅を尽くさせ、最後に血を吸って不死を保つという。  若者の少ないこの国で、お前は必ずや王家の贄に選ばれよう。  お前には私の全てを授けた。  この着物は私の子どもの夏の婚礼の衣装になるはずだったが、その前の春祭りの日にさらわれて帰らぬまま。私の子どもの婚約者は首をくくった。  お前の家族、私の家族の呪い、そして祈り。お前にはすべてがかかっておる。さあ、外へ」 「長い間、ありがとうございました、師よ」  私は礼をした。皺の深い師の顔がはじめてやさしくゆるむ。  簪で、師の耳から脳にかけて貫いた。  ゆっくりと崩れ落ちる師を深く抱きしめ、寝かせた。  時が来たらそうする約束であった。白骨堂に、師の呪いも祈りも、はじめは腐敗しても、やがては白くなって眠ることだろう。されこうべは否応なく、深い笑みを浮かべていることだろう。  白骨堂から、祭りの広場へ続く地下通路を通り、外への扉を開けた。まぶしくて目をしばたく。やわらかな陽の光、そうして花の香りが満ちる。  私の目の前に、豪奢な赤い絨毯が引いてあった。  その先には牛のいない、つややかに光る牛車が待っていて、扉が開いている。  絨毯の両端には、黒く艶やかな肌の異国の奴隷がズラリと並び、 「トキガキタ、トキガキタ」 と歌い舞いながら、籠に入れた紅や白の梅の花を惜しげなく空に舞い上げた。 「ドウゾ牛車ニオ乗リニナッテクダサイ、王宮カラオ迎エニアガリマシタ」 中でも位が高いであろう侍従がうやうやしく私にお辞儀をした。紅と白の梅の花びら、ひらひらと私の上に舞う。  祭りがあるはずの広場は他に誰もいない。  -師と私がしていたことは、すべて無駄だったか。王家に見抜かれていたか。王宮で私を待つは、首を切り落とす処刑台か、命がはてるまで続く拷問か。  約束を果たせないのは悔しいが、 私を育てあげ、彼女のすべてを注ぎ込んだ、愛しい師を殺した私には、ふさわしい終わりではないか。  牛車に乗る。いないはずの牛のひずめの音がして、牛車が浮くのが分かる。  硝子窓から覗くと、後ろから淡い布を首にかけた侍従や奴隷が、青い空にふわりと浮いて踊りながらついてくる様子は、幼いころ老女に読んでもらった、他国につたわるおとぎ話の天女のよう。  下を見ると、貧しい街や枯れ果てた畑の灰茶の中に、不自然にくっきりと浮かぶ目出度い紅白の梅の木が見える。  低い距離の薄っすらとした、刷毛で白を塗られたような雲の上をかけぬけて、紅城が見えてきた。屋根も、壁も、いくつもそびえたつ塔たちもすべて、赤珊瑚をすりつぶしたもので塗られているが、民の血をぶちまけたようにも見えた。  やがて紅城の中に、巨大な庭園が見えてきた。赤に、緑に、目が眩しい。庭園の中には、迷路である緑の生垣の刈り込みが見える。  その中心、まぶしいように噴水がきらめく場所に牛車はふわりと着地し、勝手に扉が開く。天女たちもつぎつぎと降り立ち、いそいそと真向かいの白い天幕に向かって赤い絨毯を引き、また花を散らす。春の日にしてはなまあたたかすぎる風が吹いていた。 天幕の下ににいたのは、王と女王と王女であった。  王はげっそりとこけた頬で、くちゃくちゃぺちゃぺちゃと、肉や酒を口にしている。  女王と王女は噂通り、豪勢な宝石で編まれた、首元まで多い隠すずっしりと重そうなドレスを着、絹の手袋までつけた隙のない美しいいでたちだ。しかし、女王は淡い桃の扇、王女は薄荷色の扇で顔を隠している。  あの、儚げな王子はいない。-あなた、どこにいるの? 「わが家族で一番の、賢い嫁よ。よくぞ、よくぞ、またぞ長い時を経て、ワシらのもとに帰ってきた」 むしゃむしゃと肉を食いちぎり、酒を飲み、つっかえながら、王がひからびたような声でいう。 「またよく帰ってきましたね。あたくしの息子の妻よ。こんにちもまた、心より歓迎しようではありませんか」 かすれてはいるがとても品のある発音で、女王がいう。 「義姉さま、おかえりなさいまし。いつかのようにまた、わたしと遊んでくださいませね」 咳で喉をつぶしたような声で、王女がいう。  女王も王女も扇で顔を隠していて、扇にさえぎられ風にふかれ、声はかすれてどこかへ飛んでゆきそうな気配だ。  けれども、その声には、本当に私を歓迎するこころがこもっていた。  なぜだろう、初対面のはず、それも殺さねばならぬ相手なのに、私も多くを分かちあった家族に迎えられたような気がし、突っ立ったまま涙があふれてだして止まらない。なみだが頬をつたい、ぽた、ぽた、と落ちる。  ゴウっという強い風が吹いて髪の毛が頬を叩き、我に返った。   唇を噛んでうなり、噛みつくように、女王と王女に問う。  「歓迎するというならば、扇に隠さず、顔を見せろ。その扇の陰で、ニンマリと笑っているのではないか」  女王と王女は身じろぎをした。そして、そっと扇を伏せた。    ふたりとも真っ黒にしなびた、ミイラであった。 「もうよろしいわね」 女王がそっと言った。 「わたしたちがこのようになり果ててしまいましたのもお忘れですか、お義姉さま」 王女が眼窩から流れない涙をぬぐおうとする。ひらりと落ちた手袋から、真っ黒に枯れた枝のような手指が見えた。そうしてふたりは扇で顔を隠す。 「さ、あたくしたちのことはあとで良いでしょう。あなたの到着をいまかいまかと待っているのは、あなたの夫ですよ。さあ、湯殿へ。湯殿の場所は覚えているでしょう。体の弱いあの子が、よくつかりにいっていたあの湯殿よ」  私はゆっくりと、緑の生垣の迷路を抜けた。ここを右、左、左、というように。ひとつ間違えれば出られないような複雑な場所を、婚礼の服をきた私の足は確実に抜けてゆく。  白い柱に囲まれた、白い巨大な四角い湯船だった。  そのまわりを、黒い肌をした奴隷たちが透き通る布を着て踊っている。黒いたわわな乳房が揺れ、足につけられた鈴がシャラシャラと鳴る。  湯船の中心に、服を着たまま突っ立って、こちらに腕を差し伸べている男がいる。白い顔に赤い唇の美しい、儚げで柔和な様子の。  そのころには私は駆けだしていた。 「あなた!」 「僕の妻」 温かい湯の中、足元をびしょぬれにしながら抱きついた私の耳元で、王子がささやいた。  この細いけれど強い腕を忘れていたのは、なんで?  薄くて上品な形の唇からでるいとおしい声を忘れていたのは、なんで?  長い、長い抱擁が終わり、王子を、いや私の夫を、改めて見る。  彼は何も変わっていない。銀の刺繍がしてある、まるで私とおそろいの婚礼の衣装のような服を着て、湯船の中に立っている。 「あなたにはお変わりはないようね。お父様とお母様、そうして可愛い妹の変わりようには驚いたけれど……」 「僕はこの湯殿から出られない。出たとたん、乾き果てる苦しみが永遠に続く」 静かに夫が言う。 「覚えていないのかい? 僕たちのうけた罰を」  そして私はすべてを思い出した。  すべてだ。これまでの私の、幾度も幾度もの生を。  遠い、遠い、数百年のはるかむかしだ。  この王たちは素晴らしい治世をおさめ、国はいままでにないほど豊かになった。特に王子が生まれてからは、十数年近く、実り豊かを約束する晴れ、そして雨の素晴らしい気候が続き、王子の生誕記念に国中に梅の木が植えられた。自国もたわわに平和であり、他国との付き合いも、争いのない豊かなものであった。  やがて国民たちは怠惰になった。この奇跡のような王政が続けば、必死に働く必要などないのだから。  王家の永遠の存続を、不死を求める声がひそやかに国をおおう。王家も、それにこたえようとした。  国をあげて、あらゆる秘薬がためされた。  その中で少しずつ、王家は狂っていった。あたりまえだ、薬と毒は紙一重で、毎日それを自分の体で試すのだ。民のための不死が、やがて民をさらい血を浴びるような外法となっていった。民も、そして他国も、王家を懸念するようになった。  秘薬に詳しい国から嫁として、この国の王家の暴走を止めるために送り込まれたのが私だった。必要ならば刺客として、王家すべてを殺せる秘薬の知識を持っていた。  そこで、間違いが一つ起きた。  私が、王子を、この家族を、この国を愛したのだ。そうして、不死の薬の完成を手伝った。永遠に愛する夫と、家族と、この国といるために。  不死の薬が完成したと思われた時、王と女王と王女、そして王子、私は、その祝いの盃を飲んだ。  天からの罰だったに違いない。その瞬間、王家は、不死に近いものは得た。他国を操るような、なにか不思議な強大な力も得た。しかし、天候は荒れ果て、病が蔓延し、国はいっせいに滅びへの赤い道を駆けだし始めた。梅の花が咲くことは、その日から数十年なかった。  王は餓えに苦しみ、常にものを食べ続ける。  女王と王女は美貌をすべて失った。  王子は、弱い体を癒す為によくつかっていたこの湯殿から出れば乾いてもだえ苦しみ、それでも死ぬことはできない。  その中で私だけは、一見、何も変わらなかった。  数十年、荒れ狂う天候の中、必死に治世をしき、苦しむ家族をそばに、不休で不死の薬の解毒薬の研究を重ねながら、年老いていった。そうして、しわくちゃの老婆になり、湯殿の中で夫に抱きしめられ、 「幾度生まれ変わろうとも、必ずあなたたちを救う」 と言い残し、春祭りの日に死んだ。その年から、何かしるしのように、梅の花は毎年咲くようになった。  次、私は平民の男として生まれた。物ごころついたころから、なぜだか、王家を滅ぼさなければならないという強い信念を持っていた。私は春祭りの日に革命を起こし、城にまで侵入した。その私を王家は、やっと私たちを殺してくれると涙を流して迎えた。私はすべてを思い出し、その場で自害した。  霞む目の中に、かなしみにむせぶ夫の顔を忘れない。  次も、次も、その次も、傾いていくばかりのこの国で、私は幾度も王家を滅ぼそうと、この苦しみから夫を、家族を解放しようと生きて死ぬことを繰り返した。すべて、春祭りの日だった。  -そうして数十年が経った。  年老いた私の体には力が入らず、夫に静かに見守られながら、あたたかな湯船にひたっている。湯とともに、ちりばめられた梅の花びらが体にゆるくまとわりつく。黒い肌の奴隷が、しゃらんしゃらんと鈴の音をさせながら静かに舞う。 「また、必ず、来ます」 夫の目を見ながらささやく。 「きっと、あなたを、殺しに。春祭りの、日に」 ---------------------------- [自由詩]パンドラ/田中修子[2017年2月3日17時49分] いつだって 箱の底に 残っている ひとつ とろける、喉に絡みつく、朝焼けの甘やかな、桃色 足掻くように過ごす、ふつうのひとができることをわたしはできない、晴れる昼、淡い水色 -雨の日は息をするのがなぜか楽だ、雨音のおくるみ- あんまりに、動けなくなるほどに鮮やかな夕暮れ、紺青色 夢への準備を整える、夜の黒には、ザっとまかれた極彩色の星星、煌煌の月 いくつもを越え 体中、火をまぶしたみたく血まみれになった 歩いて駆けだして、倒れ 爪が剥がれても這いづって しがみついた、生きること いきする、いきしていることを、やめなかった わたしは箱よ 好きなだけひらきなさい たくさんの災厄を見られるよ ただ、情けの、憐れの、好奇の目は、打たれるでしょう みたこともない、美しいあかりに、かならず あなたのそこにもいます、わたし かならずさいごにのこる、わたし ---------------------------- [自由詩]帽子のほころびるとき/田中修子[2017年2月8日22時55分] 膨らんできた はくもくれんの 銀にひかる繭のような葉 わたしのはらのなかで 懐かしい男と猫とあのうちは ことばをうけて赤ん坊になり ホトホト うみ落とされてゆく ていねいにガムテープで ひびわれをなおされた 菊のすりガラス その向こうの朝は おぼろに白くて目を打たない 瞼は 眠たく撫でられた わたしの渇きは 男と猫とうち すべて丸のみをしておさまった うわばみのわたしは 帽子のふりをして 風にのってフワリと泣く ひっかかった桜の枝のつぼみは やがての春を妊娠していた オギャアと咲けば すべてがほころびるとき ---------------------------- [自由詩]インディアン・サマー/田中修子[2017年2月17日21時25分] きみが ふるさとを いとしく呼ぶ あいづ と づ、にアクセントをおいて うかうか 夜行バスで きてしまった きみが歩いた町を 見たくなってさ 雪の白と温泉の湯気 ツララが青く澄み 地面に したたって 水のあまい匂いが たちこめていた 都心に近いわがやに帰り かわりばえのなさに目をとじて よくあさ洗濯のために 窓をあけたら どっと あのあまい匂いが あいづ のほうから いっさいをのみこむ波みたいに おしよせてきている 青いツララのなかには 梅や桃や桜のつぼみ ねぼけたおさかな 光る風 金色のモンシロチョウが しまいこまれて 今日の陽に ぞくりと うきたち ほどけて 今日は、小さくとも かならず 春 あいづ からやってきたきみ わたしの 春 ---------------------------- [自由詩]赤と青と白のぐるぐる/田中修子[2017年2月25日22時42分] あなたのお城 まるでおとぎ話 とうちゃんはどぶ板通りのかんばんや かあちゃんはモモエちゃんも結ったパーマやさん 赤と青と白のぐるぐる さび付いて止まっている 懐かしさに沁みて泣き腫らした目 目を離すといてついた海へ 泳ごうとする女の人 そのひとが太ももに刺した 青い絵のしたがき 骨壺に眠る 犬のハチの骨 逝ったものたちのあしおとが ひたひた城に満ちていた あまい牛乳みたいだった 城を壊しときはめぐりはじめた めざめたわたしはあなたを 置き去りにした わたしが眠っていたあたりに あなたが眠ろうとしている 紅梅が散る、晴れわたる空、燃え枯れたあなた 赤と青と白のぐるぐる なつかしさで溶こう やさしいあさやけのいろ ---------------------------- [自由詩]くりかえしくりかえそ/田中修子[2017年3月7日15時51分] わたしが家事をしながら ことばをちょこちょこ書いてるあいだ きみは 外でるんるんはたらいて 手作りべんとうがつがつ食べる うちに帰ればむしゃむしゃゴハン つーんと薄荷のお風呂に入り そそくさしたく あしたにそなえ 目をとじるとすぐ ぐうぐうねむる くりかえし くりかえし わたしはせっせとゴハンを用意 季節の野菜は安くていいな たけのこ菜の花ふきのとう おべんとう箱ぎゅうぎゅうつめて 洗濯機をぐるぐるまわし ぱたぱたはためくお洋服 いたむきみの腰にきく 薄荷のお風呂をじゃぶじゃぶいれる きみのにおいと寝息はあんしん わたしもすやすやねむってる くりかえし くりかえし 今日はおやすみ、特別な一日だよ いちゃいちゃしてから春へおでかけ 頬にあたる風がなんだか ぽかぽかするね きみとあるきまわるとすぐ夜になって 月は 目をほそめた猫みたいにみゃあ、みゃあ そんな くりかえし くりかえそ ---------------------------- [自由詩]まなびや/田中修子[2017年3月16日1時11分] いつのまにか名前を忘れていて 出席番号だけになった 常緑樹はかわらなくて 花のにおいはかけている 校舎と門 息をするのがむずかしいような 薄い空だけ 水に飽和して粘液のような砂糖みずのなか 結晶の残る とけきれない塩みず 呼ばれずに呼ばれたのは みながなあなあにする 美術の時間 この中に名前を書かないで 課題を提出した人がいます 出席番号はただの記号です 名前にあなたの命がこもっています そっか、私まだ ここにいるんだったっけか みんなが繭になりドロドロと溶け切っている 安いファンデーションにかえって赤い斑点が浮く とがった体で 名前を呼んでくれる人を ただ ただ 探していた わたしのまなびや ---------------------------- [自由詩]人と犬は枝と花/田中修子[2017年3月23日1時40分] 冬のあいだは閉じていた即売所に 春の野菜が並ぶのをみにいった 空に白い梅の花が 燃え上がるように咲いている ハンチング帽をかぶった老人が杖をつきながら 老犬とゆったりと歩いていた 犬は 毛がところどころはげていて 右足には はみ出た綿みたいなのがみえ 歩きづらそうにしながら よって来てくれた かがんでなでた 白にうつりかわった目が とてもまっすぐにわたしをみた 枯れ枝のような尻尾が したしげに揺れていたな 充ちている 一人と一匹だな ありがとうございます こちらこそありがとうございます 挨拶をして別れる さっき枝にとまっていた花が まばたきすると しずかに散って 地に淡く滲んでた ---------------------------- [自由詩]なんで/田中修子[2017年3月29日20時11分] 雪の冷たさの青の空 桜のつぼみに咲くなとわめいてる 私を殺していたあのころ なんで 好きな人は働かなかった 家事もしなかった 絵だけ描いてた 絵は息をのむようなやさしさだったのに 私はよく彼に土下座していた  愛があるなら すべて俺の気に入るとおりに できるだろ なんで お母さんは忙しかった 人を癒すことと次世代の子どものため お父さんも忙しかった お母さんを愛することと次世代の子どものため おねがいしますこっちを見て あなたたちの子どもは私です というと お母さんもお父さんも自分のやりたいことがある といってわらった なんで 自分を殺そうとすると 白いベッドに集って みんな言ってくれた あなたはそのままでいいのよ そのままですばらしい存在なのよ と なので私は自分を殺すことが 必要なことなんだと知った そうでしょう ね、なんで あの頃の色のない空を思い出す 夏ですらいつも暗くて灰色で くたびれた体を動かすために必要だったものが 色も味も感情もすべて 削ぎ落していった 薬を飲みはじめ やっと三日だけまばゆくなった空を覚えている いまは空は青や金やピンクに色がついていてとてもきれいで なのにむしょうに いまだなにもかも死んでいる 私がここにいる それでも息をして歩き続けろ いつか見た美しい夢を胸にいだいて忘れるなよ なんで、なんて ほんとうはいらない 問いも答えもいらない 咲きかけの蕾をおしとどめる 真っ青な冷えた空は きょうはすこし やわいなぁ まだ生きている幼い私たちよ 殺されるなよ さぁ、いまだ、咲け。 ---------------------------- [自由詩]花の針/田中修子[2017年4月4日22時43分] あなたは針で わたしを刺していった はたちきっかりでいったあなたの のこしたことば いくど読み返したことだろう 「あなたにわたしを息づかせるよ」 あなたを愛で殺してしまっただれか そのだれかはあなたのこと きっととうに忘れてしまっているだろうに なんでわたしはひんやりした影を 抱きしめつづけている 「ねえねえねえ なくしてから気付くなんて ばかだ」 埃のたつ紙でわたしはいまだ 喉をいためている この紙のなかにたしかにあなたの息がある わたしは満開のまま咲き続けるあなたを うちに棲ませて生きている 「ありったけの花をあげる 消えるまでの涙をあげる」 白い唇を噛んでかかえこんでいる 針の花束 --- ※「」内は友人の書きのこした言葉です。 ---------------------------- [散文(批評随筆小説等)]へび坂/田中修子[2017年4月11日0時10分] その坂は四季をつうじてみどりにうねっている。 脇のブロックには苔や羊歯がびっしりとはえていて、上にはつねに葉がそよいでいる。 春夏にはきみどりが目にしみて鳥がさえずり、通る風はすっきり澄みきっている。秋冬には黄や赤がてんてんとまざって落ち葉のカサコソという音が耳をくすぐり、命が地にかえっていく匂いがする。 坂は短い距離ながら、入り口から出口をみとおすことができないほど曲がっていて、子どものへびがうねうねとからだをよじらせているようだ。 私は、このへび坂にうまれた。すこやかだった頃の祖母に手を引かれ、よろめくように歩んでいる、幼稚園児の私。   祖母は銀色と灰色が似合って、いつもれんげのにおいのする人だった。 れんげリンスですすがれた銀の髪に銀縁の眼鏡、その奥にはたくさんのものに洗われて色の抜けた、灰色の目。 着物からワンピースに仕立てたという、上品で丈夫な灰色の服を何着か桐のタンスに持っており、だめになったところにはつぎを当て、かなしいほど丁寧に着ていた。 あのころ私は祖母の孫ではなく、子だった。母はうちのなかにいたり、いなかったりするおんなのひとで、母に持つはずだったいとしさは、すべて祖母にむかっていた。 「熱が下がったさかい、ちょっとでも散歩するか? 今日はあったかいけぇ」 「ん」 ぼんやりした頭でうなずく。私はそのころ高熱が毎日出て立ち上がれない日が続き、この子はいつまで生きられるのかと、心配されていたらしい。 ぬるくなったお絞りがおデコからはずされ起き上がる。熱く腫れたような体を、しぼりたてのタオル、次にふんわり乾燥したタオルで拭いてもらうと、あたたかくなった体で祖母に抱きつきたくなるきもちを抑えた。 気がつくと祖母に手をひかれてへび坂をくだっていた。 「今日はあったかいなぁ、出られてよかったなぁ」 体中が湿気につつまれるようで、春隣のころだったのだろう。 あの頃は風さえ見えるようだった。風には花や雨や空があった。 その風になでられてみどりが、ざわざわとゆれている。私の湿ったい手が、祖母の乾燥した手にしっかりとひかれる。ふたりはへび坂を、みどりの産道の中を、詣でるように、ゆっくりと抜けて行った。 へび坂の終わり、胸の奥から酸っぱいものがこみあげてきた。 「しんどいんか?」 「しんど」 「ちょっと待ちんさい、もうすこしいったところにお便所があるから」 ふっと記憶が途切れて、私は黄色い滑り台の階段のところに白いすっぱいものを戻してしまっていた。祖母の手が、背をなでてくれている。 へび坂のそばには、らいおん公園があった。第四公園、の「だいよん」が「らいおん」にもじられたのだろうけど、私は大きくなるまで、いつも白いライオンがそこらのしげみにひそんでいると思っていた。 そのらいおん公園にいけばいつも友だちがいて、この黄色い滑り台をみんなですべる。滑り台を、よごしてしまった、いけないことだ。 ふっと気付く。 友だちのお母さんは黒い髪なのに、隣にいる祖母は、灰色だ。 やさしく背を撫でられているのを、誰にも見られたくなかった。 「もうへいきや、手ぇはなして」 祖母は私をしずかに手放した。 帰りのへび坂は夕暮れで、あんなにすべてだった祖母が、いっぺんにちいさくなった。祖母が私を引いてくだった坂を、私が祖母の手を引いてのぼる。急にいじわるに暮れてゆく空、「足が動かないけぇベビーカーにスーパーの買い物袋入れとるから、近所の人にきちがいと呼ばれとる」うわさ話をする木々。 あのとき黄色い滑り台に吐いたのは羊水だった。羊水を吐く前、世界と私に境目はなかった。私自身が一瞬目を離すと散っている花、からだをつらぬく雨の音、どんなに背伸びをしてもつかめない空、れんげのにおいのする祖母、そうしてへび坂だった。 祖母がこの世を去って十五年以上たついまも、へび坂は苔と羊歯の色を濃くし、舌舐めずりして飲み込んだ赤ん坊をこの世にはなちつづけている。そんな産道は、ほんとうはそこかしこにある。 ---------------------------- [自由詩]桜の死んでいくとき/田中修子[2017年4月11日0時30分] きのうつぼみだったあの子が 今日はもう咲いているね 満開になって 散ってゆくね みおくるかなしさで こわれてしまわないよう みんなで別れをおしんでいる はなやかなお葬式 淡いピンクの 手や足や目がもげてゆく ひろいそこねた骨をふまずに 前へはすすめない ゆく春をひきとめてはいけないよ なごりおしすぎて この世からあなたの片足が 落ちようとしている ---------------------------- [自由詩]みどりの沼にひそむ/田中修子[2017年4月14日0時53分] 飲み込んだ言葉が 胸にわだかまりの どろりとした沼を作る 沼の中で 人に見捨てられ大きくなった亀が 悠々と泳いでいる よく見ると 子どもを食ってふくれた金魚の尾が ひらりひらり こっちへおいでと赤くさそう この風景をとどめよう そして私の胸はまた痛む それでも今日は素晴らしい日 二度と繰り返さないこの空 桃色、青色、金色のかさなる雲に足をとめた 強く吹く風は海からのものだろう ゆうぐれに月はひどく大きい 目をうつ白さに息を飲んで そうすると少し楽になる 私は痛む緑の沼だ 沼の中には大きな亀と 子どもを食ってふくれた金魚 よく見ると金魚は人魚であった 人魚の顔は私、 口の裂けるようにわらった ---------------------------- [自由詩]おかあさんの音/田中修子[2017年4月18日23時40分] あなたはわたしのなかにいる あなたの肌にはその日になると 青や緑の痣が浮かぶのだと 教えてくれた うごかない左腕で 必死に笑ってた じっと見つめるとちからのぬけた顔になった それはわたしのほんとうの顔だった あなたはわたしでわたしはあなた 静かなひととき またぜったいに会おうねとさよならした その一週間後にあなたの 心臓がとまった 燃やしてしまいたかった あなたの肌に 青や緑の痣をつけた男らのこと それを恥とした家族のこと あなたを殺したすべてを 殺せないのなら なにももう見たくはないのに まぶたを縫っては ハサミでひらきつづけた 神さまも仏さまも法律も薬でさえ あなたをなにからも守れなかった 体にあなたを刻みつけた あなたはわたしのなかに孕まれている 泣きつかれて膝に抱き 綿棒でそっと耳かきをしてあげる わたしもあなたもほんとうは知らないおかあさんの音 すこしおやすみ --- 耳かきがおかあさんの音、というのは友人のことばをお借りしました。 ---------------------------- (ファイルの終わり)